いまの十二時に習学すべし。

いまの十二時に習学すべし。
いまの十二時に習学すべし。
——『正法眼蔵』巻二十「有時」/道元

この一句は、「有時」巻の実践命令形です。
時間論の説明でも、悟りの定義でも終わらせない。学ぶ場所と時を、ここ以外に残さないための断言です。

1) 「いま」——刹那ではなく逃げ場のない現在

「いま」は心理的な“今この瞬間”ではありません。

| 過去にも未来にも委ねられない、
| すでに起動してしまっている現在。

準備・猶予・条件付けが効かない。学びは後回しにできないという意味での「いま」。

2) 「十二時」——凡庸な暦時間をあえて引き受ける

十二時は、誰でも共有する暦の時間。
道元はこれを否定しません。むしろ真正面から引き受ける。

| 超常(三頭八臂)も、
| 凡庸(十二時)と一如である。
| だから学びは、特別時間を要しない。

3) 「習学」——理解ではなく身に習わせる

習学は、知識の取得ではない。

| 身心がそのまま“癖づく”まで、
| 反復の只中に入ること。

理解を貯めるより、主語を退ける稽古。
評価・意味づけの前に、行為が行為として立つ。

4) なぜ“いまの十二時”でなければならないのか

もし学びを——

・深い体験の時
・静かな時
・整った条件の時

に限定すれば、有時は失われる。

| 起動している現在こそが、学びの素材。
| 別の時間を探すこと自体が、逃避になる。

5) 有時の時間論がここで実務に落ちる

「有時」はこう結論づけられる。

・張三李四も有時
・大地虚空も有時
・三頭八臂も有時
・そして——いまの十二時も有時

| だから学べ。
| ここで。
| いまのこの時制で。

6) 修証一等の学び方

修と証を分けない以上、

・いまは学び、いつか悟る ❌
・いま学んでいる事実が、そのまま証 ⭕

| 学びが起動している現在=完成。
| 完成を待つ学びは、仏道ではない。

7) 坐禅・日常への具体相

・雑念が多い
・仕事が立て込む
・体調が万全でない

それでも、

| いまの十二時に、坐れ。
| いまの十二時に、応答せよ。

条件を理由に学びを延期しない。延期こそが学びの放棄。

8) 現代的に言い換える

| 最適化を待つな。
| 今日のカレンダーを、
| そのまま修行場にせよ。
| 学びは“別枠”に置いた瞬間、消える。

9) 落とし穴

❌ 焦燥(常に頑張れ)
❌ 精神論(気合の話)
❌ 自己責任論

道元は追い立てていない。
場所を限定しているだけだ——「ここ」。


ひと言で凝縮すると

「いまの十二時に習学すべし」とは、
学びを特別な時から引き戻し、
起動してしまっている現在に固定する宣告。
悟りの時間は別にない。
学びの時間も別にない。
あるのは、いまの十二時だけ。
そこに、仏道はすでに立っている。
いまの十二時に習学すべし。
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