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Re: なぜ“忘れた後”も修行は続くのか

Posted: 日 1 04, 2026 6:55 am
by writer
なぜ「忘れた後」も修行は続くのか
——仏道的に深掘りする視点
(道元/『正法眼蔵』)

結論から

「忘れる」は終点ではない。
忘れたことで、修行の主語が消え、修行が“自己運行”に入る。
だから修行は終わらない。終わらないのではなく、もはや“終わらせる者”がいない。

1) 「忘れる」とは何が消えるのか

道元が言う「自己をわするる」とは、記憶喪失や無関心ではありません。

| 消えるのは、
| ・達成した私
| ・分かった私
| ・続けている私
| という“管理する主語”。

残るのは、行為が行為として起動している事実だけ。

2) 忘れたら終わり、にならない理由

もし修行が

・到達して
・忘れて
・完了
 するものなら、修行は成果物になります。

しかし道元は一貫して否定する。

| 修行は成果ではなく、起動様式。
| 成果にできないものは、完了しない。

3) 「忘れた後」に始まる修行の位相

忘却の前:
・私が修行する
・私が保つ
・私が深める

忘却の後:
・修行が修行として続く
・道が道として進む

道元の一句がここで決定的です。

| 「得道のときは、道かならず道にまかせられゆく」

忘れた後、道は所有から解放され、自己運行に入る。
自己運行は、止める主体を必要としない。

4) 修行が続くのは「努力」ではない

誤解を切ります。

❌ 忘れても頑張り続けよ
❌ 高度な修行者は常に精進

ではない。

| 続くのは、
| 回収されない出来事が、遮られずに通過するから。

努力ではなく、遮らないこと。

5) 有時の時間観が示す必然

『有時』の要点は、

| 「有はみな時なり」

修行が「有」である以上、
修行は“その時”として立ち続ける。

・過去の修行に回収しない
・未来の完成に回収しない

回収されない現在は、自動的に更新される。

6) 四摂法との一致

これまで見てきた布施論・四摂法は、すべてこの一点に収束します。

・布施:主語を立てない
・愛語:言葉で支配しない
・利行:成果を所有しない
・同事:関係を固定しない

| 主語・成果・関係を固定しない実践は、
| そのまま“続いてしまう”。

終わらせる理由がない。

7) 「忘れた後」は油断の時間ではない

もう一つの誤解。

❌ 忘れたから自由
❌ 何をしても修行

違う。

| 忘れた後は、
| 言い訳も、免罪も、自己正当化も使えない。

主語がない分、一挙手一投足がそのまま修行。
逃げ場がない。

8) 坐禅・日常への即応

・坐禅:良し悪しを評価せず、ただ坐が坐として続く
・日常:徳を積まず、ただ必要に応じて動き、去る

| 続けている意識がないのに、
| 途切れない。

それが「忘れた後」の修行。

9) 現代的に言い換える

| 修行は、
| 忘れたら終わるプロジェクトではない。
| 忘れた瞬間から、
| プロジェクト管理が外れ、
| 運行が始まる。
| 止める人がいないから、
| ただ続く。


ひと言で凝縮すると

「忘れた後も修行が続く」のは、
修行が“私の努力”ではなく、
主語を失った行為の自己運行だから。
終わらないのではない。
終わらせる者が、もういない。

——ここで、仏道は最も静かで、最も厳しくなる。

なぜ“忘れた後”も修行は続くのか

Posted: 日 1 04, 2026 6:55 am
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なぜ“忘れた後”も修行は続くのか