Re: あるいは邪人おほくおもはく、言説動容はこれ仮法なり、
Posted: 土 1 10, 2026 11:42 am
以下は、この一段を
「言語否定/沈黙礼賛への批判」や「宋代禅の退廃嘆き」として読むのではなく、
〈動静〉〈仮真〉〈沈黙〉という二分法そのものを、仏道はいかに破壊するのか
という一点に焦点を合わせて、仏道的に深掘りする視点です。
これは結論ではありません。
読者に課された、最後の参究課題です。
Ⅰ.最大の邪見:「動は仮、静は真」
| 言説動容はこれ仮法なり、寂黙凝然はこれ真実なり
道元が「邪人」と断じる核心は、ここにあります。
この発想の正体
・動=俗
・静=聖
・語=低
・黙=高
二元論による格付け。
これは一見、仏教的に見えますが、
道元はこれを 明確に仏法外 とします。
Ⅱ.なぜそれは「仏法にあらず」なのか
| 梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所許なり
ここで道元は、
・外道思想
・インド的静寂至上主義
と同一線上に置いています。
静寂を実体化した瞬間、仏法は死ぬ。
仏法は、
・動を離れた静
・静を離れた動
そのどちらでもない。
Ⅲ.「仏法はいかでか動静にかかはらん」
ここが、この段の中心命題です。
問われているのは四点
| 仏道に
| ・動静ありや
| ・動静なしや
| ・動静を接すや
| ・動静に接せらるや
これは禅問答ではありません。
思考の分岐点です。
・動と静を立てたまま考えるか
・動静が成立する以前を参究するか
仏道は後者。
Ⅳ.動静を超えるとは「どちらも否定」ではない
よくある誤解は:
・動も静も否定する
・無差別に溶かす
しかし道元はそうしない。
動は動として、静は静として、
なおかつ仏法に触れない
つまり:
・動いていても仏法
・静まっていても仏法
ではない。
仏法は、
動静が仏法を説明できない地点
Ⅴ.「晩学たゆむことなかれ」の真意
| 而今の晩学、たゆむことなかれ
これは励ましではありません。
妥協するなという最終命令。
・分かりやすい理解
・感動的沈黙
・安心できる統合
それらに逃げるな、という警告。
Ⅵ.宋代禅の退廃批判の核心
| 仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし
道元が見た宋代禅の病理は明確です。
二つの誤謬しかない
1. 沈黙至上主義
「維摩は黙った、だから黙れ」
2. 沈黙同一視主義
「維摩の黙=釈尊の黙」
どちらも、
沈黙を“型”として扱う思想。
Ⅶ.なぜ「活路なし」なのか
| さらに仏法の活路なし
「活路」とは、
・生きて働く法
・現在進行形の仏道
沈黙を模倣した瞬間、
・法は停止し
・道は博物館化する
Ⅷ.「分別の光明」とは何か
| さらに分別の光明あらざるなり
ここでの分別は、
・理屈
・分析
ではない。
見分ける力。
・同じ沈黙に見えても
・働きが違う
・身命が違う
それを見抜く眼。
Ⅸ.「仏法見聞の参学なし」という最終診断
| すべていまだかつて仏法見聞の参学なし
これは断罪ではなく、診断です。
・仏法を知識として知った
・禅語を聞いた
・沈黙に感動した
しかし、仏法が身心を破壊したことがない
だから、
・動静の二分法から出られない。
Ⅹ.「宋代だから仏法」という幻想の破壊
| 大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ
これは時代批判ではありません。
肩書・伝統・流行で仏法を測るな
・禅僧だから
・中国だから
・古いから
それだけでは、
仏法の保証にはならない。
Ⅺ.この一段の核心構造
この文章が斬っている誤りは一つです。
| 仏道を、
| 動/静、言/黙、仮/真
| という対立構造で把握しようとすること
仏道は:
・対立の止揚ではない
・中間でもない
対立が成立する以前の生き方
Ⅻ.参究の一句(結語)
| 動は仏法ではない
| 静も仏法ではない
| 動静が仏法を語れなくなるところで
| 仏法は、はじめて歩き出す
最後に(決定的に重要)
この文章は、
・沈黙を否定していません
・言語を肯定していません
問いは一つだけ残ります
| あなたが静まっているとき、
| それは逃避か、現成か
その問いを引き受けない沈黙は、
どれほど美しく見えても、
まだ仏法ではない。
ここまで来て、
動く/静まる、語る/黙る
そのどちらにも寄らずに
なお生きている法を参究せよ――
それが、この一段の最後の要求です。
「言語否定/沈黙礼賛への批判」や「宋代禅の退廃嘆き」として読むのではなく、
〈動静〉〈仮真〉〈沈黙〉という二分法そのものを、仏道はいかに破壊するのか
という一点に焦点を合わせて、仏道的に深掘りする視点です。
これは結論ではありません。
読者に課された、最後の参究課題です。
Ⅰ.最大の邪見:「動は仮、静は真」
| 言説動容はこれ仮法なり、寂黙凝然はこれ真実なり
道元が「邪人」と断じる核心は、ここにあります。
この発想の正体
・動=俗
・静=聖
・語=低
・黙=高
二元論による格付け。
これは一見、仏教的に見えますが、
道元はこれを 明確に仏法外 とします。
Ⅱ.なぜそれは「仏法にあらず」なのか
| 梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所許なり
ここで道元は、
・外道思想
・インド的静寂至上主義
と同一線上に置いています。
静寂を実体化した瞬間、仏法は死ぬ。
仏法は、
・動を離れた静
・静を離れた動
そのどちらでもない。
Ⅲ.「仏法はいかでか動静にかかはらん」
ここが、この段の中心命題です。
問われているのは四点
| 仏道に
| ・動静ありや
| ・動静なしや
| ・動静を接すや
| ・動静に接せらるや
これは禅問答ではありません。
思考の分岐点です。
・動と静を立てたまま考えるか
・動静が成立する以前を参究するか
仏道は後者。
Ⅳ.動静を超えるとは「どちらも否定」ではない
よくある誤解は:
・動も静も否定する
・無差別に溶かす
しかし道元はそうしない。
動は動として、静は静として、
なおかつ仏法に触れない
つまり:
・動いていても仏法
・静まっていても仏法
ではない。
仏法は、
動静が仏法を説明できない地点
Ⅴ.「晩学たゆむことなかれ」の真意
| 而今の晩学、たゆむことなかれ
これは励ましではありません。
妥協するなという最終命令。
・分かりやすい理解
・感動的沈黙
・安心できる統合
それらに逃げるな、という警告。
Ⅵ.宋代禅の退廃批判の核心
| 仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし
道元が見た宋代禅の病理は明確です。
二つの誤謬しかない
1. 沈黙至上主義
「維摩は黙った、だから黙れ」
2. 沈黙同一視主義
「維摩の黙=釈尊の黙」
どちらも、
沈黙を“型”として扱う思想。
Ⅶ.なぜ「活路なし」なのか
| さらに仏法の活路なし
「活路」とは、
・生きて働く法
・現在進行形の仏道
沈黙を模倣した瞬間、
・法は停止し
・道は博物館化する
Ⅷ.「分別の光明」とは何か
| さらに分別の光明あらざるなり
ここでの分別は、
・理屈
・分析
ではない。
見分ける力。
・同じ沈黙に見えても
・働きが違う
・身命が違う
それを見抜く眼。
Ⅸ.「仏法見聞の参学なし」という最終診断
| すべていまだかつて仏法見聞の参学なし
これは断罪ではなく、診断です。
・仏法を知識として知った
・禅語を聞いた
・沈黙に感動した
しかし、仏法が身心を破壊したことがない
だから、
・動静の二分法から出られない。
Ⅹ.「宋代だから仏法」という幻想の破壊
| 大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ
これは時代批判ではありません。
肩書・伝統・流行で仏法を測るな
・禅僧だから
・中国だから
・古いから
それだけでは、
仏法の保証にはならない。
Ⅺ.この一段の核心構造
この文章が斬っている誤りは一つです。
| 仏道を、
| 動/静、言/黙、仮/真
| という対立構造で把握しようとすること
仏道は:
・対立の止揚ではない
・中間でもない
対立が成立する以前の生き方
Ⅻ.参究の一句(結語)
| 動は仏法ではない
| 静も仏法ではない
| 動静が仏法を語れなくなるところで
| 仏法は、はじめて歩き出す
最後に(決定的に重要)
この文章は、
・沈黙を否定していません
・言語を肯定していません
問いは一つだけ残ります
| あなたが静まっているとき、
| それは逃避か、現成か
その問いを引き受けない沈黙は、
どれほど美しく見えても、
まだ仏法ではない。
ここまで来て、
動く/静まる、語る/黙る
そのどちらにも寄らずに
なお生きている法を参究せよ――
それが、この一段の最後の要求です。