擬するは模擬すると読めないか
Posted: 日 1 11, 2026 4:59 pm
はい、読めます。
しかもこの文脈では、「模擬する」と読むほうが、むしろ道元の狙いに近いと言ってよいです。
以下、語義・文脈・思想の三層で整理します。
① 語義としての「擬する」
中世漢文・和漢混交文における 擬(ぎ) には、少なくとも次の含意があります。
・なぞらえる
・見立てる
・想定する
・模擬する/シミュレートする
・仮にそうしてみる(頭の中で)
つまり、
| 水そらをゆかんと擬する鳥魚
は、
・実際に行く
ではなく
・行けるかどうかを、観念的にやってみる
・概念上で再現しようとする
という意味が十分に成立します。
② 文脈的に見ると「模擬」としか読めない理由
問題の前半はこうでした。
| 水をきはめ、そらをきはめてのち、
ここですでに、
・水を「対象化」し
・空を「理解可能なもの」として
・いったん外に置いている
その上で、
| 水そらをゆかんと擬する
これは、
・水や空を
・生きる条件としてではなく
・操作可能なモデルとして扱う
態度です。
これはまさに
模擬・シミュレーション・理論実験。
③ なぜ「模擬」が致命的なのか(仏道的核心)
仏道において致命的なのは、
・失敗すること
ではなく
・生をモデル化すること
です。
魚にとって水は、
・理解対象ではない
・選択肢でもない
・検討課題でもない
即・命
鳥にとって空も同じ。
それを、
| 水をきはめ
| 空をきはめ
| そのうえで行ってみようと擬する
瞬間、
・魚は「水の外」に出され
・鳥は「空の外」に出される
だから道元は断言します。
| 水にもそらにも
| みちをうべからず
| ところをうべからず
④ 「模擬」は現代的に言えば何か
現代語に引き寄せるなら、これは:
・メタ認知
・システム理解後の最適行動
・理論武装してから実践
・「分かってからやる」態度
です。
道元はこれを、はっきり 否定しています。
なぜなら仏道は、
・分かる → 行く
ではなく
・行くことが分かること
だから。
⑤ だから「鳥魚」という混線が起こる
模擬の世界では、
・魚であること
・鳥であること
は、入れ替え可能なロールになります。
・水の論理を知ったから
・空の構造も応用できるはずだ
という錯覚。
それが、
| 鳥魚
という、存在論的破綻として表現されている。
⑥ まとめ(ここが決定点)
| 「擬する」は、模擬である。
| そして模擬とは、命を一度、外に出すことだ。
魚が水を模擬した瞬間、魚ではなくなる。
鳥が空を模擬した瞬間、鳥ではなくなる。
だから、
・行けない
・飛べない
のではない。
| どこにも存在できなくなる。
これが、
| ところをうべからず
の正体です。
もしさらに一歩進めるなら、
・なぜ道元は「擬する」を否定しつつ、公案という「模擬的言語」を使うのか
・なぜ「風性常住」の話でも、理解ではなく「扇を使う」動作が出てくるのか
このあたりが、次の核心になります。
しかもこの文脈では、「模擬する」と読むほうが、むしろ道元の狙いに近いと言ってよいです。
以下、語義・文脈・思想の三層で整理します。
① 語義としての「擬する」
中世漢文・和漢混交文における 擬(ぎ) には、少なくとも次の含意があります。
・なぞらえる
・見立てる
・想定する
・模擬する/シミュレートする
・仮にそうしてみる(頭の中で)
つまり、
| 水そらをゆかんと擬する鳥魚
は、
・実際に行く
ではなく
・行けるかどうかを、観念的にやってみる
・概念上で再現しようとする
という意味が十分に成立します。
② 文脈的に見ると「模擬」としか読めない理由
問題の前半はこうでした。
| 水をきはめ、そらをきはめてのち、
ここですでに、
・水を「対象化」し
・空を「理解可能なもの」として
・いったん外に置いている
その上で、
| 水そらをゆかんと擬する
これは、
・水や空を
・生きる条件としてではなく
・操作可能なモデルとして扱う
態度です。
これはまさに
模擬・シミュレーション・理論実験。
③ なぜ「模擬」が致命的なのか(仏道的核心)
仏道において致命的なのは、
・失敗すること
ではなく
・生をモデル化すること
です。
魚にとって水は、
・理解対象ではない
・選択肢でもない
・検討課題でもない
即・命
鳥にとって空も同じ。
それを、
| 水をきはめ
| 空をきはめ
| そのうえで行ってみようと擬する
瞬間、
・魚は「水の外」に出され
・鳥は「空の外」に出される
だから道元は断言します。
| 水にもそらにも
| みちをうべからず
| ところをうべからず
④ 「模擬」は現代的に言えば何か
現代語に引き寄せるなら、これは:
・メタ認知
・システム理解後の最適行動
・理論武装してから実践
・「分かってからやる」態度
です。
道元はこれを、はっきり 否定しています。
なぜなら仏道は、
・分かる → 行く
ではなく
・行くことが分かること
だから。
⑤ だから「鳥魚」という混線が起こる
模擬の世界では、
・魚であること
・鳥であること
は、入れ替え可能なロールになります。
・水の論理を知ったから
・空の構造も応用できるはずだ
という錯覚。
それが、
| 鳥魚
という、存在論的破綻として表現されている。
⑥ まとめ(ここが決定点)
| 「擬する」は、模擬である。
| そして模擬とは、命を一度、外に出すことだ。
魚が水を模擬した瞬間、魚ではなくなる。
鳥が空を模擬した瞬間、鳥ではなくなる。
だから、
・行けない
・飛べない
のではない。
| どこにも存在できなくなる。
これが、
| ところをうべからず
の正体です。
もしさらに一歩進めるなら、
・なぜ道元は「擬する」を否定しつつ、公案という「模擬的言語」を使うのか
・なぜ「風性常住」の話でも、理解ではなく「扇を使う」動作が出てくるのか
このあたりが、次の核心になります。