Re: 洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、講什麼経(洪州西山の亮座主、因みに馬祖に参ず。祖問ふ、什麼経をか講ずる)。
Posted: 水 1 14, 2026 5:43 am
この一段は、問答の巧拙ではなく、「講経とは何が起こっていることなのか」を、
存在の根から転倒させる場面です。
以下、仏道的に深掘りします。
一、構造を先に見る:三段階の破壊
この問答は、順に 三つの足場を壊しています。
1. 経を講ずる主体(人)
2. 講ずる手段(心・意・識)
3. 講経という行為そのもの
最終的に残るのは、「虚空としてしか成立しない講経」です。
二、「将心講」──修行者の自然な誤答
亮座主の答えは、決して浅くありません。
・講ずるのは文字ではない
・口でもない
・心をもって講ずる
これは、仏教教学としては高度です。
しかし 馬祖 は、
その高さそのものを問題にする。
三、「心如工伎兒…」──心は主ではない
馬祖の譬えは非常に鋭い。
・心=工伎兒(からくり人形)
・意=和伎者(操り手)
・六識=伴侶
ここで言われているのは:
| 心は自律的な主体ではない
つまり、
・心で悟る
・心で講ずる
・心で修行する
と思った瞬間、
すでに 心は操られている側 になっている。
心を「道具」にした時点で、
講経は成立しない。
四、「虚空講得麼」──最後の逃げ道
追い詰められた亮座主は、
極めて仏教的な仮説を出す。
| 心で講じられないなら、
| 虚空が講じているのではないか
これは一見、正解に見える。
しかし重要なのは、
まだ「仮説」だから。
五、「却是虚空講得」──主体の完全消滅
馬祖は否定しない。
肯定する。
| まさに、虚空が講じている
だがこれは、
・虚空という何かがある
・それが主体として講じる
という意味ではない。
仏道的意味
・講じようとする者がいない
・講じられる対象もいない
・それでも「講経」という事実が成立している
出来事そのものが虚空
六、払袖而退──まだ「わかったつもり」
亮座主は立ち去る。
これは悟りではない。
・理解した
・答えが出た
・決着がついた
と思ったための退却。
だから馬祖は、追い討ちをかける。
七、「従生至老、只是這箇」──一生を貫く事実
振り返った亮座主に向かって、
| 生から老に至るまで、
| ただこれだけだ
ここで初めて、
亮座主は「省(さとり)」に至る。
なぜか。
それは:
・一度の理解
・一場の問答
・一瞬の体験
ではなく、
生涯を通して起こり続ける事実
として「虚空講経」を引き受けたから。
八、道元の総括が決定的
道元はこの公案を、こう畳みかける。
・心経を講ずるにも虚空
・身経を講ずるにも虚空
・思量も虚空
・不思量も虚空
・有師智も無師智も虚空
これは相対化ではない。
| どの立場にも逃げ場がない
という宣告。
九、仏道的核心(この段の一点)
| 講経とは、
| 何かを語る行為ではない。
|
| 生きてしまっていることそのものが、
| すでに説法であるという事実である。
だから、
・仏になること
・祖になること
すら、
| 虚空としてしか起こらない
十、修行への直結
この段は、私たちにこう突きつける。
・今の沈黙は、何を講じているか
・今の迷いは、何経か
・今の老いは、何を説いているか
答えを探す必要はない。
すでに講じ終えている
それを引き受けること。
そこに、
「虚空」の仏道があります。
もし次に深めるなら、
・「虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり」
・「作仏作祖、おなじく虚空なるべし」
ここは、坐禅観と直結します。
存在の根から転倒させる場面です。
以下、仏道的に深掘りします。
一、構造を先に見る:三段階の破壊
この問答は、順に 三つの足場を壊しています。
1. 経を講ずる主体(人)
2. 講ずる手段(心・意・識)
3. 講経という行為そのもの
最終的に残るのは、「虚空としてしか成立しない講経」です。
二、「将心講」──修行者の自然な誤答
亮座主の答えは、決して浅くありません。
・講ずるのは文字ではない
・口でもない
・心をもって講ずる
これは、仏教教学としては高度です。
しかし 馬祖 は、
その高さそのものを問題にする。
三、「心如工伎兒…」──心は主ではない
馬祖の譬えは非常に鋭い。
・心=工伎兒(からくり人形)
・意=和伎者(操り手)
・六識=伴侶
ここで言われているのは:
| 心は自律的な主体ではない
つまり、
・心で悟る
・心で講ずる
・心で修行する
と思った瞬間、
すでに 心は操られている側 になっている。
心を「道具」にした時点で、
講経は成立しない。
四、「虚空講得麼」──最後の逃げ道
追い詰められた亮座主は、
極めて仏教的な仮説を出す。
| 心で講じられないなら、
| 虚空が講じているのではないか
これは一見、正解に見える。
しかし重要なのは、
まだ「仮説」だから。
五、「却是虚空講得」──主体の完全消滅
馬祖は否定しない。
肯定する。
| まさに、虚空が講じている
だがこれは、
・虚空という何かがある
・それが主体として講じる
という意味ではない。
仏道的意味
・講じようとする者がいない
・講じられる対象もいない
・それでも「講経」という事実が成立している
出来事そのものが虚空
六、払袖而退──まだ「わかったつもり」
亮座主は立ち去る。
これは悟りではない。
・理解した
・答えが出た
・決着がついた
と思ったための退却。
だから馬祖は、追い討ちをかける。
七、「従生至老、只是這箇」──一生を貫く事実
振り返った亮座主に向かって、
| 生から老に至るまで、
| ただこれだけだ
ここで初めて、
亮座主は「省(さとり)」に至る。
なぜか。
それは:
・一度の理解
・一場の問答
・一瞬の体験
ではなく、
生涯を通して起こり続ける事実
として「虚空講経」を引き受けたから。
八、道元の総括が決定的
道元はこの公案を、こう畳みかける。
・心経を講ずるにも虚空
・身経を講ずるにも虚空
・思量も虚空
・不思量も虚空
・有師智も無師智も虚空
これは相対化ではない。
| どの立場にも逃げ場がない
という宣告。
九、仏道的核心(この段の一点)
| 講経とは、
| 何かを語る行為ではない。
|
| 生きてしまっていることそのものが、
| すでに説法であるという事実である。
だから、
・仏になること
・祖になること
すら、
| 虚空としてしか起こらない
十、修行への直結
この段は、私たちにこう突きつける。
・今の沈黙は、何を講じているか
・今の迷いは、何経か
・今の老いは、何を説いているか
答えを探す必要はない。
すでに講じ終えている
それを引き受けること。
そこに、
「虚空」の仏道があります。
もし次に深めるなら、
・「虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり」
・「作仏作祖、おなじく虚空なるべし」
ここは、坐禅観と直結します。