Re: 六祖、門人行昌に示して云く、無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり。 いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。しかあれば、無常の
Posted: 木 1 15, 2026 10:53 am
とてもよい箇所を据えましたね。
ここは『正法眼蔵 仏性』の中でも、道元がもっとも力を込めて「仏性の誤解」を断ち切る中核部です。
以下、仏道的に深掘りするための視点を、段階を追って示します。
仏道的に深掘りする核心視点
――「仏性は“見る対象”ではなく、“我慢が落ちた身の現れ”である」
① 龍樹が最初に断つもの:「福業」と「価値比較」
南天竺の人々はこう言います。
| 人の福業有る、世間第一なり
| 徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる
ここで問題にされているのは、
・善行を積めば上
・福が多いほど尊い
・仏性も「何かすぐれたもの」だろう
という価値序列の思考です。
龍樹は、この地点で仏性を語る資格そのものがまだ無いと見抜いています。
② 「仏性を見たければ、まず我慢を除け」
| 汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし
ここが決定的です。
我慢とは何か
単なる「慢心」ではありません。
・見る主体としての「私」
・分かっている者としての「私」
・修行している者としての「私」
仏性を“見ようとする立場そのもの”
これが我慢です。
だから道元は後に言います。
| 見はなきにあらず、その見これ除我慢なり
つまり、
・仏性が「見えない」のではない
・“見る私”が落ちたとき、すでにそれが仏性
③ 非大非小・非広非狭の本当の意味
| 仏性大に非ず小に非ず、広に非ず狹に非ず
これは形容否定ではありません。
仏道的にはこう読む
・大小・広狭は
→ 測る者がいる世界の言葉
・仏性は
→ 測る/測られる関係そのものが成立しない
つまり、
| 仏性とは
| 「比較が起きる以前の身の成立」
④ 「自在身・円月相」は超能力ではない
ここで最大の誤読が生じます。
| 坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し
多くの人は、
・光り輝く円月
・神秘的な化身
・目に見える霊的現象
と理解してしまう。
道元は、これを真っ向から否定します
| 愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、邪念なり
では何か。
⑤ 「身現そのものが円月相」
道元の結論は徹底しています。
| この身、これ円月相現なり
| 身現は方円にあらず、有無にあらず
仏道的に言い切ると
・坐っている身
・語っている身
・老いている身
・病む身
その現れ方そのものが、すでに円月相
だから、
・円月相を「見る」ことはできない
・円月相は「なる」ものでもない
すでにそうである身を、対象化せずに生きているか
それだけが問われている。
⑥ 提婆だけが「身現=仏性」と言えた理由
道元は非常に厳しい評価を下します。
| 身現相は仏性なりと道取せるは、ただ提婆尊者のみ
なぜか。
多くの人は、
・仏性は眼見耳聞にあらず
とは言えても、
・身現が仏性である
とは言えない。
それは、
・身を「器」
・身を「手段」
・身を「迷いの入れ物」
として見ているからです。
⑦ 道元が最も怒っているもの:「画餅の円月」
後半の痛烈な批判はここに集中します。
・壁画の円月
・図像化された龍樹
・概念化された仏性
これらはすべて、
| 身現を離れて仏性を語ろうとする態度
だから道元は言います。
| 真箇の画餅一枚なり
⑧ 深掘りのための決定的問い
この段を読むとき、
自分に必ず投げるべき問いは一つです。
| 「私は、仏性を“身から切り離して理解しようとしていないか?」
もしそうなら、
それはすでに「我慢」の側に立っています。
最終まとめ(凝縮)
| 仏性とは、
| 見られるものではない。
|
| 我慢が落ちきったとき、
| そのまま現れている
| “この身のあり方”を、
| 後からそう呼んだ名前である。
だから龍樹は言い、
道元は徹底して繰り返します。
| 先須除我慢
仏性を得るためではない。
仏性を探す主体を落とすために。
もし次に進むなら、
・「身現」と「修証一等」
・「円月相」と「現成公案」
・「無相三昧」と「兀坐」
を結ぶと、理解がさらに深まります。
次はどこを掘りますか。
ここは『正法眼蔵 仏性』の中でも、道元がもっとも力を込めて「仏性の誤解」を断ち切る中核部です。
以下、仏道的に深掘りするための視点を、段階を追って示します。
仏道的に深掘りする核心視点
――「仏性は“見る対象”ではなく、“我慢が落ちた身の現れ”である」
① 龍樹が最初に断つもの:「福業」と「価値比較」
南天竺の人々はこう言います。
| 人の福業有る、世間第一なり
| 徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる
ここで問題にされているのは、
・善行を積めば上
・福が多いほど尊い
・仏性も「何かすぐれたもの」だろう
という価値序列の思考です。
龍樹は、この地点で仏性を語る資格そのものがまだ無いと見抜いています。
② 「仏性を見たければ、まず我慢を除け」
| 汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし
ここが決定的です。
我慢とは何か
単なる「慢心」ではありません。
・見る主体としての「私」
・分かっている者としての「私」
・修行している者としての「私」
仏性を“見ようとする立場そのもの”
これが我慢です。
だから道元は後に言います。
| 見はなきにあらず、その見これ除我慢なり
つまり、
・仏性が「見えない」のではない
・“見る私”が落ちたとき、すでにそれが仏性
③ 非大非小・非広非狭の本当の意味
| 仏性大に非ず小に非ず、広に非ず狹に非ず
これは形容否定ではありません。
仏道的にはこう読む
・大小・広狭は
→ 測る者がいる世界の言葉
・仏性は
→ 測る/測られる関係そのものが成立しない
つまり、
| 仏性とは
| 「比較が起きる以前の身の成立」
④ 「自在身・円月相」は超能力ではない
ここで最大の誤読が生じます。
| 坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し
多くの人は、
・光り輝く円月
・神秘的な化身
・目に見える霊的現象
と理解してしまう。
道元は、これを真っ向から否定します
| 愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、邪念なり
では何か。
⑤ 「身現そのものが円月相」
道元の結論は徹底しています。
| この身、これ円月相現なり
| 身現は方円にあらず、有無にあらず
仏道的に言い切ると
・坐っている身
・語っている身
・老いている身
・病む身
その現れ方そのものが、すでに円月相
だから、
・円月相を「見る」ことはできない
・円月相は「なる」ものでもない
すでにそうである身を、対象化せずに生きているか
それだけが問われている。
⑥ 提婆だけが「身現=仏性」と言えた理由
道元は非常に厳しい評価を下します。
| 身現相は仏性なりと道取せるは、ただ提婆尊者のみ
なぜか。
多くの人は、
・仏性は眼見耳聞にあらず
とは言えても、
・身現が仏性である
とは言えない。
それは、
・身を「器」
・身を「手段」
・身を「迷いの入れ物」
として見ているからです。
⑦ 道元が最も怒っているもの:「画餅の円月」
後半の痛烈な批判はここに集中します。
・壁画の円月
・図像化された龍樹
・概念化された仏性
これらはすべて、
| 身現を離れて仏性を語ろうとする態度
だから道元は言います。
| 真箇の画餅一枚なり
⑧ 深掘りのための決定的問い
この段を読むとき、
自分に必ず投げるべき問いは一つです。
| 「私は、仏性を“身から切り離して理解しようとしていないか?」
もしそうなら、
それはすでに「我慢」の側に立っています。
最終まとめ(凝縮)
| 仏性とは、
| 見られるものではない。
|
| 我慢が落ちきったとき、
| そのまま現れている
| “この身のあり方”を、
| 後からそう呼んだ名前である。
だから龍樹は言い、
道元は徹底して繰り返します。
| 先須除我慢
仏性を得るためではない。
仏性を探す主体を落とすために。
もし次に進むなら、
・「身現」と「修証一等」
・「円月相」と「現成公案」
・「無相三昧」と「兀坐」
を結ぶと、理解がさらに深まります。
次はどこを掘りますか。