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Re: 裟婆世界大宋国、福州玄沙山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。

Posted: 日 1 18, 2026 5:31 am
by writer
この一段は、『正法眼蔵・一顆明珠』の思想的背景としての「玄沙師備という一人の生の事実」を、道元が意図的に丁寧に描いた箇所です。
ここでは 仏道的に深掘りする視点を、①人物の配置、②転身の契機、③猛省の一句、④雪峰との問答、⑤非エリート性、⑥「法を嗣ぐ力」の意味、の六層で示します。

① なぜ道元はまず「伝記」を語るのか

ここで描かれているのは、単なる逸話ではありません。
道元は先に「尽十方世界是一顆明珠」という極限まで抽象化された道理を展開し、
その直後に 具体的な一人の生身の僧を提示します。


一顆明珠は思想ではなく、生の履歴として現れる
ということを示すためです。

② 在家時代――「釣魚を愛す」という決定的設定

| 在家のそのかみ釣魚を愛し…

ここは非常に重要です。

・玄沙は学僧ではない
・経典を読んでいない
・清浄な宗教家庭でもない


最初から「仏道向きの人」ではない。

道元はあえて、

・漁師
・舟
・南台江
 という生存の現場を描きます。

| 不釣自上の金鱗を不待にもありけん

これは皮肉ではなく、すでに釣っていたのに、釣ろうとしていた
という仏道的逆説です。

③ 出塵は「理想」ではなく、浮世の危機感

| 浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。

ここでの出家は、

・教義への共感
・理念への憧れ
 ではありません。


生の不安定さを、身で知ったことが契機。

仏道は「美しい道」ではなく、
生死に耐えうる唯一の道として選ばれています。

④ 石に脚指を築著する――身体からの覚醒

| 脚指を石に築著して、流血し、痛楚するに…

ここが決定的転回点です。

重要なのは「痛み」そのものではない

玄沙は叫びません。逃げません。

| 是身非有、痛自何来

仏道的深掘り

・身体は「ある」と思っていた
・痛みは「私に属する」と思っていた

その前提が一瞬で崩れる。


観念ではなく、流血する身体が思惟を破壊した。

これは悟りの演出ではない。
生身が自らを裏切った瞬間。

⑤ 雪峰との最初の問答――「誑かさず」

ここで登場する師が
雪峰義存 です。

| 雪峰「那箇是備頭陀」
| 玄沙「終不敢誑於人」

ここで言っていないこと

・悟りました
・分かりました
・明珠です


ただ「人を誑かさない」

仏道的核心

・真理を語らない
・自分を飾らない
・分かったふりをしない


仏道は“正解を言う力”ではなく、“誑かさない身の在り方”

⑥ 「達磨不来東土」――理解を拒む言葉

雪峰がさらに問う。

| なぜ徧参しないのか

玄沙の答え:
| 達磨不来東土、二祖不往西天

これは説明ではありません。


歴史・因縁・学問に逃げる道を断つ一句。

だから雪峰は「ことにほめ」た。

⑦ 非エリート性の強調――経も衣も持たない

| もろもろの経書、ゆめにもかつていまだ見ざりけれども…

道元はここを削りません。

・経典を知らない
・衣は継ぎはぎ
・紙衣、艾草
・他の知識に参じない


仏道は文化資本によらない
という、きわめて厳しい宣言。

⑧ 「法を嗣するちから」とは何か

| しかあれども、まさに師の法を嗣するちから、弁取せりき。

これは「悟った」という意味ではありません。

仏道的定義

・師の言葉を理解した → ✕
・師の思想を継承した → ✕


師の身心のあり方を、同じ重さで生きられる力。

それが「嗣法」。

まとめ(仏道的核心)

この一段が語る仏道の核心は、これです。

| 一顆明珠とは、
| 特別な才能でも、
| 深い知識でも、
| 清浄な経歴でもない。
| 誑かさず、逃げず、
| 身の痛みからも離れない生である。


一句で言えば

| 玄沙が明珠だったのではない。
| 玄沙の生き方そのものが、
| 尽十方世界一顆明珠として転じていた。

もしご希望があれば、

・玄沙の生と「黒山鬼窟」の関係
・この伝記が『一顆明珠』全体で果たす役割
・道元がなぜこの人物を選んだのか

まで、さらに深く掘り下げられます。

裟婆世界大宋国、福州玄沙山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。

Posted: 日 1 18, 2026 4:52 am
by writer
  裟婆世界大宋国、福州玄沙山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。在家のそのかみ釣魚を愛し、舟を南台江にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。不釣自上の金鱗を不待にもありけん。唐の咸通のはじめ、たちまちに出塵をねがふ。舟をすてて山にいる。そのとし三十歳になりけり。浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。つひに雪峰山にのぼりて、真覚大師に参じて、昼夜に弁道す。
  あるときあまねく諸方を参徹せんため、嚢をたづさへて出嶺するちなみに、脚指を石に築著して、流血し、痛楚するに、忽然として猛省していはく、是身非有、痛自何来(是の身有に非ず、痛み何れよりか来れる)。
  すなはち雪峰にかへる。
  雪峰とふ、那箇是備頭陀(那箇か是れ備頭陀)。
  玄沙いはく、終不敢誑於人(終に敢へて人を誑かさず)。
  このことばを雪峰ことに愛していはく、たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得せん。
  雪峰さらにとふ、備頭陀なんぞ徧参せざる。
  師いはく、達磨不来東土、二祖不往西天(達磨東土に来らず、二祖西天に往かず)といふに、雪峰ことにほめき。
  ひごろはつりする人にてあれば、もろもろの経書、ゆめにもかつていまだ見ざりけれども、こころざしのあさからぬをさきとすれば、かたへにこゆる志気あらはれけり。雪峰も、衆のなかにすぐれたりとおもひて、門下の角立なりとほめき。ころもはぬのをもちゐ、ひとつをかへざりければ、ももつづりにつづれけり。はだへには紙衣をもちゐけり、艾草をもきけり。雪峰に参ずるほかは、自余の知識をとぶらはざりけり。しかあれども、まさに師の法を嗣するちから、弁取せりき。