Re: 「国師三喚(こくしさんかん)」―『無門関』第17則
Posted: 火 1 27, 2026 11:40 am
では、道元的解釈として「国師三喚」を読むと、どうなるか。
結論から言うと――これは“即時成仏・修証一等”そのものの公案です。
道元的読みの核心(要約)
道元はこの公案を
「悟った心で正しく応じた話」
とは読まない。
「呼ぶ=修行」「応じる=悟り」ではなく、
呼ぶ・応じる、その出来事自体がすでに仏行であり仏果
と読む。
①「呼ぶ」と「応じる」は二つではない
一般的理解では:
・国師=悟っている側
・侍者=それに正しく応じた弟子
となりがちですが、道元はこの主客・師弟の分離を嫌います。
道元的には:
・呼ぶ声そのものが仏法の現成
・「はい」と応じる身体そのものが仏法の現成
つまり
声と応答、師と弟子、主体と客体は分かれていない。
これは『正法眼蔵』全体を貫く
「身心脱落=出来事としての仏道」の立場です。
②「三回」は時間の継続ではない
普通は「一回目・二回目・三回目」と
時間の流れで読みますが、道元はそう見ません。
道元的には:
・一回一回がそれぞれ完全な一回
・前後に支えられていない「今」の現成
これは有名な道元の時間論
「有時(うじ)」の感覚です。
| 三回呼ばれた → 三つの「今」が完全に成就している
だからこそ、
・慣れも
・惰性も
・集積も
存在しない。
③「裏切らなかった」の意味(道元的転倒)
国師の言葉
| 「我れ汝を負わず、汝我れを負わず」
これを道徳や信義の話にすると、
即アウトなのが道元。
道元的には:
・国師は「国師という役割」を演じなかった
・侍者は「弟子という役割」を演じなかった
役割・立場・意味づけを“裏切った”瞬間が一度もない
=ただ仏法として現成していた。
④ 道元ならこう言い換える
もし道元が現代語で言うなら、たぶんこんな感じです:
| 呼ばれて応じたのではない。
| 応じるところに呼び声があり、
| 呼び声のところに応じる身心がある。
|
| それを三喚と名づけるだけである。
ひとことで道元的に言うと
国師三喚とは、
「正しく応じた話」ではなく
「世界が三度、完全に仏として起こった話」。
修行 → 悟り、ではない。
修行しているその瞬間が、すでに悟り。
これ、かなり道元っぽいでしょ。
次は
・無門慧開との決定的な違い
・臨済的読みとの対比
・現代生活に落とすとどうなるか
どれ行きます?
結論から言うと――これは“即時成仏・修証一等”そのものの公案です。
道元的読みの核心(要約)
道元はこの公案を
「悟った心で正しく応じた話」
とは読まない。
「呼ぶ=修行」「応じる=悟り」ではなく、
呼ぶ・応じる、その出来事自体がすでに仏行であり仏果
と読む。
①「呼ぶ」と「応じる」は二つではない
一般的理解では:
・国師=悟っている側
・侍者=それに正しく応じた弟子
となりがちですが、道元はこの主客・師弟の分離を嫌います。
道元的には:
・呼ぶ声そのものが仏法の現成
・「はい」と応じる身体そのものが仏法の現成
つまり
声と応答、師と弟子、主体と客体は分かれていない。
これは『正法眼蔵』全体を貫く
「身心脱落=出来事としての仏道」の立場です。
②「三回」は時間の継続ではない
普通は「一回目・二回目・三回目」と
時間の流れで読みますが、道元はそう見ません。
道元的には:
・一回一回がそれぞれ完全な一回
・前後に支えられていない「今」の現成
これは有名な道元の時間論
「有時(うじ)」の感覚です。
| 三回呼ばれた → 三つの「今」が完全に成就している
だからこそ、
・慣れも
・惰性も
・集積も
存在しない。
③「裏切らなかった」の意味(道元的転倒)
国師の言葉
| 「我れ汝を負わず、汝我れを負わず」
これを道徳や信義の話にすると、
即アウトなのが道元。
道元的には:
・国師は「国師という役割」を演じなかった
・侍者は「弟子という役割」を演じなかった
役割・立場・意味づけを“裏切った”瞬間が一度もない
=ただ仏法として現成していた。
④ 道元ならこう言い換える
もし道元が現代語で言うなら、たぶんこんな感じです:
| 呼ばれて応じたのではない。
| 応じるところに呼び声があり、
| 呼び声のところに応じる身心がある。
|
| それを三喚と名づけるだけである。
ひとことで道元的に言うと
国師三喚とは、
「正しく応じた話」ではなく
「世界が三度、完全に仏として起こった話」。
修行 → 悟り、ではない。
修行しているその瞬間が、すでに悟り。
これ、かなり道元っぽいでしょ。
次は
・無門慧開との決定的な違い
・臨済的読みとの対比
・現代生活に落とすとどうなるか
どれ行きます?