『眼睛』と『有時』の厳密な差
Posted: 水 1 28, 2026 4:42 am
これは道元理解の“最後の分岐点”です。
ここを混同すると、『有時』は時間論に堕ち、『眼睛』は体験論に堕ちます。
厳密に切り分けます。
結論を一文で(決定的差)
| 『有時』は〈存在が時間として現れる構造〉の語であり、
| 『眼睛』は〈その構造すら前提にせず、すでに起きている現成〉の語である。
同じ「いま」を語っているのではありません。
位相が一段ずれている。
Ⅰ.『有時』とは何か(厳密定義)
『有時』で道元がしているのは、
時間の否定でも、永遠の肯定でもない。
有時の核心定義
| 存在は、時間としてしか現れない
・山は「ある時間」
・人も「ある時間」
・修行も「ある時間」
ここでのポイントは:
・時間の中に存在がある
・存在が時間をもつ
存在そのものが、時である
有時の位相
・構造の語
・説明可能
・哲学化できる
・思惟に耐える
有時は、思考がギリギリ届く場所
だから道元は、
・松は時
・人は時
・仏も時
と、徹底的に言語化する
Ⅱ.『眼睛』とは何か(有時との対照)
眼睛は、ここからさらに一歩踏み外す。
眼睛の核心定義
| 起きてしまっていることに、
| 時間的構造を読み込む余地がない状態
眼睛では:
・これは今だ
・これは時だ
・これは存在だ
そう言う前に、すでに起きている
眼睛の位相
・構造ではない
・説明不能
・思惟が滑る
・現成そのもの
眼睛は、有時を成立させる余地すら残さない
Ⅲ.決定的差①:時間の扱い
有時
・時間が主題
・存在=時という構造
・「時をどう理解するか」が問われる
眼睛
・時間が主題にならない
・理解の余白がない
・「起きている」以外が語れない
有時は時間を貫く
眼睛は時間を問題にさせない
Ⅳ.決定的差②:主体との関係
有時
・主体は否定されるが
・「理解しようとする視点」は残る
だから言える:
| 私はいまこの時を生きている
眼睛
・その「私」は立たない
・生きているという把握も立たない
眼睛では、
“いまを生きている”という言明が遅すぎる
Ⅴ.決定的差③:危険の種類
有時の危険
・美しい時間論になる
・実存哲学に回収される
・「いまを大切に」が生まれる
眼睛の危険
・何も掴めない
・安心が一切ない
・行為の言い訳が消える
だから道元は、有時を語り、眼睛で壊す
Ⅵ.なぜ道元は両方を書いたのか
理由ははっきりしています。
・有時だけ → 思想になる
・眼睛だけ → 読めない
だから道元は:
1. 有時で
・存在と時間の構造を徹底的に言語化し
2. 眼睛で
・その言語化そのものを破壊する
構造を示し、構造に住まわせない
Ⅶ.一言で言うなら(核心)
| 有時は「存在は必ず時間として現れる」と示す語、
| 眼睛は「現れてしまっている事実に、
| もはや“時”と名づける余地がない」場所の語。
最後に(非常に重要)
もし今、
・有時は美しい
・眼睛は息苦しい
と感じているなら、
それは正確です。
| 有時は理解に耐えるが、
| 眼睛は生を引き受けさせる。
最後の一行
| 『有時』は、
| 生が時間として成立する理路を示し、
| 『眼睛』は、
| その理路が立つ前に、
| すでに生きてしまっている現場を示す。
ここまで来ました。
もう残っているのは、道元がなぜこれを書かねばならなかったのか、その一点だけです。
ここを混同すると、『有時』は時間論に堕ち、『眼睛』は体験論に堕ちます。
厳密に切り分けます。
結論を一文で(決定的差)
| 『有時』は〈存在が時間として現れる構造〉の語であり、
| 『眼睛』は〈その構造すら前提にせず、すでに起きている現成〉の語である。
同じ「いま」を語っているのではありません。
位相が一段ずれている。
Ⅰ.『有時』とは何か(厳密定義)
『有時』で道元がしているのは、
時間の否定でも、永遠の肯定でもない。
有時の核心定義
| 存在は、時間としてしか現れない
・山は「ある時間」
・人も「ある時間」
・修行も「ある時間」
ここでのポイントは:
・時間の中に存在がある
・存在が時間をもつ
存在そのものが、時である
有時の位相
・構造の語
・説明可能
・哲学化できる
・思惟に耐える
有時は、思考がギリギリ届く場所
だから道元は、
・松は時
・人は時
・仏も時
と、徹底的に言語化する
Ⅱ.『眼睛』とは何か(有時との対照)
眼睛は、ここからさらに一歩踏み外す。
眼睛の核心定義
| 起きてしまっていることに、
| 時間的構造を読み込む余地がない状態
眼睛では:
・これは今だ
・これは時だ
・これは存在だ
そう言う前に、すでに起きている
眼睛の位相
・構造ではない
・説明不能
・思惟が滑る
・現成そのもの
眼睛は、有時を成立させる余地すら残さない
Ⅲ.決定的差①:時間の扱い
有時
・時間が主題
・存在=時という構造
・「時をどう理解するか」が問われる
眼睛
・時間が主題にならない
・理解の余白がない
・「起きている」以外が語れない
有時は時間を貫く
眼睛は時間を問題にさせない
Ⅳ.決定的差②:主体との関係
有時
・主体は否定されるが
・「理解しようとする視点」は残る
だから言える:
| 私はいまこの時を生きている
眼睛
・その「私」は立たない
・生きているという把握も立たない
眼睛では、
“いまを生きている”という言明が遅すぎる
Ⅴ.決定的差③:危険の種類
有時の危険
・美しい時間論になる
・実存哲学に回収される
・「いまを大切に」が生まれる
眼睛の危険
・何も掴めない
・安心が一切ない
・行為の言い訳が消える
だから道元は、有時を語り、眼睛で壊す
Ⅵ.なぜ道元は両方を書いたのか
理由ははっきりしています。
・有時だけ → 思想になる
・眼睛だけ → 読めない
だから道元は:
1. 有時で
・存在と時間の構造を徹底的に言語化し
2. 眼睛で
・その言語化そのものを破壊する
構造を示し、構造に住まわせない
Ⅶ.一言で言うなら(核心)
| 有時は「存在は必ず時間として現れる」と示す語、
| 眼睛は「現れてしまっている事実に、
| もはや“時”と名づける余地がない」場所の語。
最後に(非常に重要)
もし今、
・有時は美しい
・眼睛は息苦しい
と感じているなら、
それは正確です。
| 有時は理解に耐えるが、
| 眼睛は生を引き受けさせる。
最後の一行
| 『有時』は、
| 生が時間として成立する理路を示し、
| 『眼睛』は、
| その理路が立つ前に、
| すでに生きてしまっている現場を示す。
ここまで来ました。
もう残っているのは、道元がなぜこれを書かねばならなかったのか、その一点だけです。