『眼睛』と『有時』の厳密な差

これは道元理解の“最後の分岐点”です。
ここを混同すると、『有時』は時間論に堕ち、『眼睛』は体験論に堕ちます。
厳密に切り分けます。

結論を一文で(決定的差)

| 『有時』は〈存在が時間として現れる構造〉の語であり、
| 『眼睛』は〈その構造すら前提にせず、すでに起きている現成〉の語である。

同じ「いま」を語っているのではありません。
位相が一段ずれている。

Ⅰ.『有時』とは何か(厳密定義)

『有時』で道元がしているのは、
時間の否定でも、永遠の肯定でもない。

有時の核心定義

| 存在は、時間としてしか現れない

・山は「ある時間」
・人も「ある時間」
・修行も「ある時間」

ここでのポイントは:
・時間の中に存在がある ❌
・存在が時間をもつ ❌


存在そのものが、時である


有時の位相

・構造の語
・説明可能
・哲学化できる
・思惟に耐える


有時は、思考がギリギリ届く場所

だから道元は、

・松は時
・人は時
・仏も時

と、徹底的に言語化する

Ⅱ.『眼睛』とは何か(有時との対照)

眼睛は、ここからさらに一歩踏み外す。

眼睛の核心定義

| 起きてしまっていることに、
| 時間的構造を読み込む余地がない状態

眼睛では:
・これは今だ ❌
・これは時だ ❌
・これは存在だ ❌


そう言う前に、すでに起きている


眼睛の位相

・構造ではない
・説明不能
・思惟が滑る
・現成そのもの


眼睛は、有時を成立させる余地すら残さない

Ⅲ.決定的差①:時間の扱い

有時

・時間が主題
・存在=時という構造
・「時をどう理解するか」が問われる

眼睛

・時間が主題にならない
・理解の余白がない
・「起きている」以外が語れない


有時は時間を貫く
眼睛は時間を問題にさせない

Ⅳ.決定的差②:主体との関係

有時

・主体は否定されるが
・「理解しようとする視点」は残る

だから言える:
| 私はいまこの時を生きている

眼睛

・その「私」は立たない
・生きているという把握も立たない


眼睛では、
“いまを生きている”という言明が遅すぎる

Ⅴ.決定的差③:危険の種類

有時の危険

・美しい時間論になる
・実存哲学に回収される
・「いまを大切に」が生まれる

眼睛の危険

・何も掴めない
・安心が一切ない
・行為の言い訳が消える


だから道元は、有時を語り、眼睛で壊す

Ⅵ.なぜ道元は両方を書いたのか

理由ははっきりしています。

・有時だけ → 思想になる
・眼睛だけ → 読めない

だから道元は:
1. 有時で

  ・存在と時間の構造を徹底的に言語化し
2. 眼睛で

  ・その言語化そのものを破壊する


構造を示し、構造に住まわせない

Ⅶ.一言で言うなら(核心)

| 有時は「存在は必ず時間として現れる」と示す語、
| 眼睛は「現れてしまっている事実に、
| もはや“時”と名づける余地がない」場所の語。

最後に(非常に重要)

もし今、

・有時は美しい
・眼睛は息苦しい

と感じているなら、
それは正確です。

| 有時は理解に耐えるが、
| 眼睛は生を引き受けさせる。


最後の一行

| 『有時』は、
| 生が時間として成立する理路を示し、
| 『眼睛』は、
| その理路が立つ前に、
| すでに生きてしまっている現場を示す。

ここまで来ました。
もう残っているのは、道元がなぜこれを書かねばならなかったのか、その一点だけです。
58.眼睛正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 『眼睛』と『身心脱落』の厳密な差(0)  眼睛は倫理や行為とどう関わるのか(0)  『眼睛』と『虚空』の厳密な差(0)  眼睛と「慈悲」は両立するのか(0)  その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか(0)  『眼睛』と『虚空』と『古鏡』の厳密な差(0)  眼睛における「生死」(0)  『眼睛』と『有時』の厳密な差(0)  道元が「なぜ眼睛」を書かねばならなかったのか(0)  坐禅と眼睛の関係は(0)  眼睛を語れなくなるために、 座禅する?(0)  悟りと眼睛の関係(0)  億千万劫の参学を拈来して団欒せしむるは、八万四千の眼睛なり。 先師天童古仏、住瑞巌時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。(1)  洞山悟本大師、在雲巌会時、遇雲巌作鞋次、師白雲巌曰、就和尚乞眼睛(洞山悟本大師、雲巌の会に在りし時、雲巌の作鞋に遇ふ次でに、師、雲巌に白して曰く、和尚に就いて眼睛を乞はん)。 雲巌曰、汝底与阿誰去也(汝底を阿誰にか与へ去るや)。(1)  先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい(1) 
これは道元理解の“最後の分岐点”です。
ここを混同すると、『有時』は時間論に堕ち、『眼睛』は体験論に堕ちます。
厳密に切り分けます。

結論を一文で(決定的差)

| 『有時』は〈存在が時間として現れる構造〉の語であり、
| 『眼睛』は〈その構造すら前提にせず、すでに起きている現成〉の語である。

同じ「いま」を語っているのではありません。
位相が一段ずれている。

Ⅰ.『有時』とは何か(厳密定義)

『有時』で道元がしているのは、
時間の否定でも、永遠の肯定でもない。

有時の核心定義

| 存在は、時間としてしか現れない

・山は「ある時間」
・人も「ある時間」
・修行も「ある時間」

ここでのポイントは:
・時間の中に存在がある ❌
・存在が時間をもつ ❌


存在そのものが、時である


有時の位相

・構造の語
・説明可能
・哲学化できる
・思惟に耐える


有時は、思考がギリギリ届く場所

だから道元は、

・松は時
・人は時
・仏も時

と、徹底的に言語化する

Ⅱ.『眼睛』とは何か(有時との対照)

眼睛は、ここからさらに一歩踏み外す。

眼睛の核心定義

| 起きてしまっていることに、
| 時間的構造を読み込む余地がない状態

眼睛では:
・これは今だ ❌
・これは時だ ❌
・これは存在だ ❌


そう言う前に、すでに起きている


眼睛の位相

・構造ではない
・説明不能
・思惟が滑る
・現成そのもの


眼睛は、有時を成立させる余地すら残さない

Ⅲ.決定的差①:時間の扱い

有時

・時間が主題
・存在=時という構造
・「時をどう理解するか」が問われる

眼睛

・時間が主題にならない
・理解の余白がない
・「起きている」以外が語れない


有時は時間を貫く
眼睛は時間を問題にさせない

Ⅳ.決定的差②:主体との関係

有時

・主体は否定されるが
・「理解しようとする視点」は残る

だから言える:
| 私はいまこの時を生きている

眼睛

・その「私」は立たない
・生きているという把握も立たない


眼睛では、
“いまを生きている”という言明が遅すぎる

Ⅴ.決定的差③:危険の種類

有時の危険

・美しい時間論になる
・実存哲学に回収される
・「いまを大切に」が生まれる

眼睛の危険

・何も掴めない
・安心が一切ない
・行為の言い訳が消える


だから道元は、有時を語り、眼睛で壊す

Ⅵ.なぜ道元は両方を書いたのか

理由ははっきりしています。

・有時だけ → 思想になる
・眼睛だけ → 読めない

だから道元は:
1. 有時で

  ・存在と時間の構造を徹底的に言語化し
2. 眼睛で

  ・その言語化そのものを破壊する


構造を示し、構造に住まわせない

Ⅶ.一言で言うなら(核心)

| 有時は「存在は必ず時間として現れる」と示す語、
| 眼睛は「現れてしまっている事実に、
| もはや“時”と名づける余地がない」場所の語。

最後に(非常に重要)

もし今、

・有時は美しい
・眼睛は息苦しい

と感じているなら、
それは正確です。

| 有時は理解に耐えるが、
| 眼睛は生を引き受けさせる。


最後の一行

| 『有時』は、
| 生が時間として成立する理路を示し、
| 『眼睛』は、
| その理路が立つ前に、
| すでに生きてしまっている現場を示す。

ここまで来ました。
もう残っているのは、道元がなぜこれを書かねばならなかったのか、その一点だけです。