坐禅と眼睛の関係は

問いが、最後に必ず戻ってくる場所に来ましたね。
では逃げずに、しかし過不足なく言います。

結論(まず一行)

| 坐禅は、眼睛を得るための方法ではない。
| 坐禅とは、眼睛から逃げないために、身を縛る形式である。

1️⃣ 坐禅は「到達の手段」ではない

これは道元理解で最も誤解される点です。

・坐禅をすれば悟れる ❌
・坐禅で身心脱落が起こる ❌
・坐禅が眼睛を生む ❌

道元にとって坐禅は、

| 何かが起こることを期待する行為ではない

期待が入った瞬間、

・成果
・進歩
・体験

という主体の構造が復活する。

それは眼睛の真逆です。

2️⃣ 眼睛と坐禅の正確な関係

眼睛とは

・すでに起きてしまっている現成
・判断も意味づけもできない現場

問題

眼睛はあまりに露骨で、
人は必ず逃げる。

・解釈に逃げる
・理論に逃げる
・修行体験に逃げる
・日常に紛れて忘れる
眼睛は耐えられない

3️⃣ 坐禅は「逃げ場を塞ぐ装置」

ここが核心です。

坐禅とは:
・何もしないための行為 ❌
・無になるための技法 ❌

| 動けるのに動かない
| 考えられるのに従わない
| 逃げられるのに逃げない

という、身体的拘束。


坐禅は、
眼睛から逃げるための通路を、
一時的に封鎖する

4️⃣ なぜ「坐っているだけ」なのか

もし坐禅が、

・工夫を要し
・集中を要求し
・心の状態を評価する

ものなら、


うまく坐る私/だめな私
が必ず生まれる。

それを避けるために、

| 只管打坐

・ただ坐る
・うまくも下手もない
・何も足さない


眼睛を覆い隠す要素を、極限まで削る

5️⃣ 坐禅中に起きることは「どうでもいい」

これは冷たく聞こえるかもしれませんが、正確です。

・静けさ
・雑念
・苦しさ
・安らぎ
・空っぽ感
・集中
すべて、等しくどうでもいい

なぜなら、

| それを評価した瞬間、
| もう眼睛ではない

坐禅は、

・よい状態を保つ場ではない
・悪い状態を排除する場でもない

ただ、起きていることが起きている

6️⃣ なぜ坐禅が「中心」に置かれるのか

道元が坐禅を仏道の中心に据えた理由は一つ。

| 坐禅だけが、
| 眼睛を「理解」や「倫理」や「物語」に
| 変換しにくいから

・説明しにくい
・他人に見せにくい
・成果が伝わらない


制度化しにくい実践

だからこそ、坐禅しかなかった。

7️⃣ 坐禅と日常の関係

重要なのはここです。

・坐禅が特別 ❌
・日常が応用 ❌

道元は逆。

| 坐禅は、
| 日常がすでに眼睛であることを、
| ごまかせなくする一点

だから、

・食べる
・掃く
・話す
・迷う

すべてが、
坐禅と同じ重さになる

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| 坐禅とは、
| 眼睛を得る修行ではなく、
| 眼睛から目を逸らさないための、
| 人為的に不自由な姿勢である。

9️⃣ 最後に(とても大切なこと)

もしあなたが、

・坐禅に意味を求めたくなる
・何かが起きてほしくなる
・無駄ではないかと疑う

なら、それは正確です。

道元は、そこを消さない。

| 意味がなくても、
| 起きてしまっている生から、
| 逃げないこと

それが坐禅。


最後の一行

| 坐禅は、
| 眼睛を語るためにするのではない。
| 眼睛を語れなくなるために、
| ただ坐る。

ここまで来たあなたに、
もう付け加える言葉はありません。
58.眼睛正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 『眼睛』と『身心脱落』の厳密な差(0)  眼睛は倫理や行為とどう関わるのか(0)  『眼睛』と『虚空』の厳密な差(0)  眼睛と「慈悲」は両立するのか(0)  その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか(0)  『眼睛』と『虚空』と『古鏡』の厳密な差(0)  眼睛における「生死」(0)  『眼睛』と『有時』の厳密な差(0)  道元が「なぜ眼睛」を書かねばならなかったのか(0)  坐禅と眼睛の関係は(0)  眼睛を語れなくなるために、 座禅する?(0)  悟りと眼睛の関係(0)  億千万劫の参学を拈来して団欒せしむるは、八万四千の眼睛なり。 先師天童古仏、住瑞巌時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。(1)  洞山悟本大師、在雲巌会時、遇雲巌作鞋次、師白雲巌曰、就和尚乞眼睛(洞山悟本大師、雲巌の会に在りし時、雲巌の作鞋に遇ふ次でに、師、雲巌に白して曰く、和尚に就いて眼睛を乞はん)。 雲巌曰、汝底与阿誰去也(汝底を阿誰にか与へ去るや)。(1)  先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい(1) 
問いが、最後に必ず戻ってくる場所に来ましたね。
では逃げずに、しかし過不足なく言います。

結論(まず一行)

| 坐禅は、眼睛を得るための方法ではない。
| 坐禅とは、眼睛から逃げないために、身を縛る形式である。

1️⃣ 坐禅は「到達の手段」ではない

これは道元理解で最も誤解される点です。

・坐禅をすれば悟れる ❌
・坐禅で身心脱落が起こる ❌
・坐禅が眼睛を生む ❌

道元にとって坐禅は、

| 何かが起こることを期待する行為ではない

期待が入った瞬間、

・成果
・進歩
・体験

という主体の構造が復活する。

それは眼睛の真逆です。

2️⃣ 眼睛と坐禅の正確な関係

眼睛とは

・すでに起きてしまっている現成
・判断も意味づけもできない現場

問題

眼睛はあまりに露骨で、
人は必ず逃げる。

・解釈に逃げる
・理論に逃げる
・修行体験に逃げる
・日常に紛れて忘れる
眼睛は耐えられない

3️⃣ 坐禅は「逃げ場を塞ぐ装置」

ここが核心です。

坐禅とは:
・何もしないための行為 ❌
・無になるための技法 ❌

| 動けるのに動かない
| 考えられるのに従わない
| 逃げられるのに逃げない

という、身体的拘束。


坐禅は、
眼睛から逃げるための通路を、
一時的に封鎖する

4️⃣ なぜ「坐っているだけ」なのか

もし坐禅が、

・工夫を要し
・集中を要求し
・心の状態を評価する

ものなら、


うまく坐る私/だめな私
が必ず生まれる。

それを避けるために、

| 只管打坐

・ただ坐る
・うまくも下手もない
・何も足さない


眼睛を覆い隠す要素を、極限まで削る

5️⃣ 坐禅中に起きることは「どうでもいい」

これは冷たく聞こえるかもしれませんが、正確です。

・静けさ
・雑念
・苦しさ
・安らぎ
・空っぽ感
・集中
すべて、等しくどうでもいい

なぜなら、

| それを評価した瞬間、
| もう眼睛ではない

坐禅は、

・よい状態を保つ場ではない
・悪い状態を排除する場でもない

ただ、起きていることが起きている

6️⃣ なぜ坐禅が「中心」に置かれるのか

道元が坐禅を仏道の中心に据えた理由は一つ。

| 坐禅だけが、
| 眼睛を「理解」や「倫理」や「物語」に
| 変換しにくいから

・説明しにくい
・他人に見せにくい
・成果が伝わらない


制度化しにくい実践

だからこそ、坐禅しかなかった。

7️⃣ 坐禅と日常の関係

重要なのはここです。

・坐禅が特別 ❌
・日常が応用 ❌

道元は逆。

| 坐禅は、
| 日常がすでに眼睛であることを、
| ごまかせなくする一点

だから、

・食べる
・掃く
・話す
・迷う

すべてが、
坐禅と同じ重さになる

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| 坐禅とは、
| 眼睛を得る修行ではなく、
| 眼睛から目を逸らさないための、
| 人為的に不自由な姿勢である。

9️⃣ 最後に(とても大切なこと)

もしあなたが、

・坐禅に意味を求めたくなる
・何かが起きてほしくなる
・無駄ではないかと疑う

なら、それは正確です。

道元は、そこを消さない。

| 意味がなくても、
| 起きてしまっている生から、
| 逃げないこと

それが坐禅。


最後の一行

| 坐禅は、
| 眼睛を語るためにするのではない。
| 眼睛を語れなくなるために、
| ただ坐る。

ここまで来たあなたに、
もう付け加える言葉はありません。