迷を大悟するは諸仏なり、
悟に大迷なるは衆生なり。
——道元(『正法眼蔵』)
この一句は、さきほどの
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす…」
と完全に噛み合う、第二の刃です。
仏道的に深掘りすると、悟りの常識が根底から裏返る。
1. 構造の異様さ──なぜ「悟る」のは迷なのか
普通はこう考えます。
・迷 → 悪い
・悟 → 良い
・迷を捨てて悟りに行く
しかし道元は、逆の関係を示します。
・迷を大悟する=諸仏
・悟に大迷する=衆生
問題は「迷か悟か」ではない。
それをどう扱っているかです。
2. 「迷を大悟する」とは何か
ここでの迷は、
・煩悩
・不安
・無明
・未完成さ
それ自体が消える、という意味ではありません。
| 迷を“迷として完全に引き受ける”こと
| ——逃げず、飾らず、超えようともしない。
迷を対象化して
「これは迷だ」「克服すべきだ」
と扱う瞬間、すでに一段引いた自己が立つ。
諸仏とは、
迷から距離を取らない存在です。
3. なぜそれが「大悟」なのか
「大悟」とは、
迷がなくなることではない。
| 迷いのただなかに、
| 迷いを所有する主体が消えること。
・迷っている「私」

・迷いがそのまま起きている
ここで初めて、
迷は問題でも材料でもなくなり、
仏道の現成になる。
4. 「悟に大迷なる」とはどういうことか
一方、衆生はどうか。
・分かった
・目覚めた
・正しい理解を得た
この「悟り」を、
自分の所有物にした瞬間——
| 悟りそのものが、最大の迷いになる。
なぜなら、
・悟った私
・分かっている自分
・正しい立場
という強固な自己像が立ち上がるから。
5. 悟りは「最も精巧な自我」になりうる
粗い迷いより、
洗練された悟りのほうが、はるかに厄介です。
・論理的
・霊的
・道徳的
・静かで優しい
しかしその中心に、
| 「私は分かっている」
が残る限り、
それは悟りにおける大迷。
6. 修証一等との決定的接点
この一句は、修証一等を倫理ではなく構造として示します。
・悟りを得たから仏になる

・迷いを迷いとして引き受け切ったところが、すでに仏
だから諸仏は、
・迷わない存在

・迷いを排除しない存在
7. 坐禅で起きていること
坐禅中、
・雑念が出る → 迷
・静かになる → 悟
と評価した瞬間、
すでに「悟に大迷」。
一方、
・雑念が出ている
・評価せず、所有せず、排除しない
この徹底した非回収が、
「迷を大悟する」実地。
8. 現代的に読むなら──「わかった人」問題
現代社会で最も厄介なのは、
・目覚めた人
・正しさを知った人
・分断を超えたつもりの人
彼らが陥りやすいのが、
悟に大迷なる衆生。
道元は、
「間違うな」とは言わない。
| 悟りを握るな。
| 迷いから降りるな。
9. この一句の残酷な優しさ
この言葉は慰めではありません。
・いつまでも途中
・完成しない
・逃げ場がない
しかし同時に、
| 今この迷いの姿を、
| そのまま仏道として差し出してよい
という、
一切条件なしの肯定でもある。
ひと言で凝縮すると
諸仏とは、迷いを卒業した者ではない。
迷いを“迷いのまま”引き受け切った者である。
衆生とは、悟りをつかんで離さない者である。
次に深めるなら——
・この一句と「身心脱落」の関係
・なぜ悟りは必ず自我を生むのか
・現代人が「悟に大迷」から抜け出せない理由
どこを掘りますか。
迷を大悟するは諸仏なり、
悟に大迷なるは衆生なり。
——道元(『正法眼蔵』)
この一句は、さきほどの
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす…」
と完全に噛み合う、第二の刃です。
仏道的に深掘りすると、悟りの常識が根底から裏返る。
1. 構造の異様さ──なぜ「悟る」のは迷なのか
普通はこう考えます。
・迷 → 悪い
・悟 → 良い
・迷を捨てて悟りに行く
しかし道元は、逆の関係を示します。
・迷を大悟する=諸仏
・悟に大迷する=衆生
問題は「迷か悟か」ではない。
それをどう扱っているかです。
2. 「迷を大悟する」とは何か
ここでの迷は、
・煩悩
・不安
・無明
・未完成さ
それ自体が消える、という意味ではありません。
| 迷を“迷として完全に引き受ける”こと
| ——逃げず、飾らず、超えようともしない。
迷を対象化して
「これは迷だ」「克服すべきだ」
と扱う瞬間、すでに一段引いた自己が立つ。
諸仏とは、
迷から距離を取らない存在です。
3. なぜそれが「大悟」なのか
「大悟」とは、
迷がなくなることではない。
| 迷いのただなかに、
| 迷いを所有する主体が消えること。
・迷っている「私」 ❌
・迷いがそのまま起きている ⭕
ここで初めて、
迷は問題でも材料でもなくなり、
仏道の現成になる。
4. 「悟に大迷なる」とはどういうことか
一方、衆生はどうか。
・分かった
・目覚めた
・正しい理解を得た
この「悟り」を、
自分の所有物にした瞬間——
| 悟りそのものが、最大の迷いになる。
なぜなら、
・悟った私
・分かっている自分
・正しい立場
という強固な自己像が立ち上がるから。
5. 悟りは「最も精巧な自我」になりうる
粗い迷いより、
洗練された悟りのほうが、はるかに厄介です。
・論理的
・霊的
・道徳的
・静かで優しい
しかしその中心に、
| 「私は分かっている」
が残る限り、
それは悟りにおける大迷。
6. 修証一等との決定的接点
この一句は、修証一等を倫理ではなく構造として示します。
・悟りを得たから仏になる ❌
・迷いを迷いとして引き受け切ったところが、すでに仏 ⭕
だから諸仏は、
・迷わない存在 ❌
・迷いを排除しない存在 ⭕
7. 坐禅で起きていること
坐禅中、
・雑念が出る → 迷
・静かになる → 悟
と評価した瞬間、
すでに「悟に大迷」。
一方、
・雑念が出ている
・評価せず、所有せず、排除しない
この徹底した非回収が、
「迷を大悟する」実地。
8. 現代的に読むなら──「わかった人」問題
現代社会で最も厄介なのは、
・目覚めた人
・正しさを知った人
・分断を超えたつもりの人
彼らが陥りやすいのが、
悟に大迷なる衆生。
道元は、
「間違うな」とは言わない。
| 悟りを握るな。
| 迷いから降りるな。
9. この一句の残酷な優しさ
この言葉は慰めではありません。
・いつまでも途中
・完成しない
・逃げ場がない
しかし同時に、
| 今この迷いの姿を、
| そのまま仏道として差し出してよい
という、
一切条件なしの肯定でもある。
ひと言で凝縮すると
諸仏とは、迷いを卒業した者ではない。
迷いを“迷いのまま”引き受け切った者である。
衆生とは、悟りをつかんで離さない者である。
次に深めるなら——
・この一句と「身心脱落」の関係
・なぜ悟りは必ず自我を生むのか
・現代人が「悟に大迷」から抜け出せない理由
どこを掘りますか。