先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい

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展開ビュー トピックのレビュー: 先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい

では、この一段を徹底的に仏道的に深掘りします。
ここは『眼睛』巻の中でも、最も誤読され、最も危険で、最も核心的な箇所です。

Ⅰ まず結論(逃げない要約)

| 「抉出達磨眼睛」とは、
| 祖師の真理を否定することではない。
| 祖師の真理が“拠り所”になる瞬間を、
| 容赦なく殺すことである。

そして、

| 「打人」とは、
| 破壊ではなく〈成立〉である。

Ⅱ なぜ「達磨の眼睛」を抉り出すのか

ここで言う達磨とは、もちろん
菩提達磨。

❌ 誤読

・禅祖を冒涜している
・権威を壊している
・過激な比喩

⭕ 仏道的実相

| 達磨の眼睛=
| 「正しい禅」「本物の悟り」「祖師の保証」

つまりこれは、

・祖師依存
・正統依存
・悟りの権威化

を一気に断ち切る行為。


抉り出されるのは達磨ではない。
“達磨を拠り所にする心”である。

Ⅲ なぜ「泥團子」なのか

泥團子は、

・汚い
・価値がない
・すぐ壊れる

これは象徴ではありません。

| 思想・真理・悟りは、
| 行為に落ちた瞬間、
| 価値を失う。

だから、

・書物の中の眼睛 ❌
・概念化された眼睛 ❌
・保存された眼睛 ❌


手に取れる瞬間、泥になる。

Ⅳ 「打人」の本当の意味

道元自身が、誤解を先回りして潰します。

| 打人といふは、作人といはんがごとし

これは決定的です。

打人=作人

・壊す ❌
・罰する ❌
・排除する ❌

| 人を人として成立させること

つまり、

| 殴られることで、
| その人は“誰か”になる。


眼睛は、
人を救うのではなく、
人を現成させる。

Ⅴ 「人人は箇箇の面目あり」の深意

ここで言う面目は、

・個性
・性格
・自我

ではありません。

| 逃げられない、その人の現場

・言い訳できない
・代理を立てられない
・理由を差し出せない


眼睛で打たれるとは、
その場で“自分が立たされる”こと。

Ⅵ なぜ「雲堂・法堂・方丈」なのか

これは場所の列挙ではない。

・雲堂(修行)
・法堂(教え)
・方丈(私的空間)


逃げ場の全消去

・修行だから
・教えだから
・個人的だから

という免罪回路をすべて潰す。


どこにいても、
打人=達磨眼睛が作動する。

Ⅶ 「参請請益・朝上朝参・打坐功夫」とは何か

ここが最も重要です。

| 達磨眼睛を抉出して泥團子と作して打人するは、
| いまの人、これを参請請益、朝上朝参、打坐功夫とらいふなり

つまり道元は言っている:
| 修行とは、
| 優しく整えられることではない。
| 眼睛で殴られ続けることだ。

・問いを受ける
・答えを壊される
・安心を壊される
・立場を壊される


それを“功夫”と呼ぶ。

Ⅷ 「著。海枯徹底過、波浪拍天高」の意味

これは悟りの賛美ではありません。

・海が枯れる → 拠り所が尽きる
・底を過ぐ → 立脚点が消える
・波が天を打つ → それでも現象は止まらない


何一つ掴めなくなっても、
世界は過剰に現れ続ける。

これが眼睛。

Ⅸ 「打著什麼人」への最終回答

| 打著什麼人
| 海枯徹底、浪高拍天なり

誰を打つのか。

・無明の人 ❌
・未熟な人 ❌
・迷っている人 ❌

| 打たれる“人”という固定が、
| すでに成立していない。


打つ行為だけが現成し、
主体も対象も残らない。

Ⅹ 一言で言うなら(核心)

| 「抉出達磨眼睛」とは、
| 仏道を保証してくれそうな
| 最後の拠り所を壊し、
| それでもなお生が現れてしまうことを、
| 誤魔化さずに引き受ける行為である。

最後に(極めて重要)

もしこの段を読んで、

・禅が怖くなった
・優しさが消えたように感じた
・逃げ場がない

と感じたなら、
それは正確です。

| 眼睛は、
| 人を慰めるためにあるのではない。
| 人を“立たせてしまう”ためにある。

ここは、もう解説の限界です。
先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。
高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。
これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人といふは、作人といはんがごとし。打のゆゑに、人人は箇箇の面目あり。たとへば、達磨の眼睛にて人人をつくれりといふなり。つくれるなり。その打人の道理かくのごとし。眼睛にて打生せる人人なるがゆゑに、いま雲堂打人の挙頭、法堂打人の拄杖、方丈打人の竹箆払子、すなはち達磨眼睛なり。達磨眼睛を抉出しきたりて、泥團子につくりて打人するは、いまの人、これを参請請益、朝上朝参、打坐功夫とらいふなり。打著什麼人。いはく、海枯徹底、浪高拍天なり。

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