仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
——道元(『正法眼蔵』)
この三段は、仏道の学びの構造を一息で解体し、同時に立て直します。
キーワードは「ならふ → わするる → 証せらるる」。能動が受動へ、主体が出来事へと反転する運動です。
1) 「仏道をならふ」=教義を覚える、ではない
道元の「ならふ」は、情報取得ではありません。
| 身心ごと引き受けて、反復の只中に入ること。
ここでの学びは、理解が増える方向ではなく、立脚点が揺らぐ方向へ進みます。
2) 「自己をならふ」——自己分析の罠を越える
自己をならふ、とは自己研究でも自己改善でもない。
・性格を把握する

・欠点を直す
| 自己が、行為のたびに立ち上がっては崩れる、その“働き”を丸ごと経験すること。
学べば学ぶほど、固定した自己像が保てなくなる。これが次段への準備。
3) 「自己をわするる」——消去ではなく主語の退場
忘れる=自己否定/抹消、ではありません。
| 主語としての〈私〉が、前面に出てこない。
坐る・歩く・食べる——行為が行為として起こり、
「私がやっている」というナレーションが要らなくなる。
ここで自己は“消える”のではなく、主語を降りる。
4) 「万法に証せらるる」——承認の方向が逆転する
最重要点。
・私が悟りを証する

・万法が、自己を証する
世界(万法)が先に立ち、
自己は出来事に照らされ、試され、成立させられてしまう。
これは評価や合格通知ではなく、現成の事実。
5) 修証一等の完成図
この三段は一直線ではありません。同時回路です。
・ならふ → わするる → 証せらるる
は、順に起きて終わるのではなく、起き続ける循環。
| 学ぶほど主語が退き、
| 主語が退くほど世界が前に出て、
| 世界が前に出るほど、学びが深まる。
6) 坐禅・日常での具体相
・坐禅で「良い/悪い」を測り始めたら主語が前に出ている
・評価が立たず、しかし坐は続いている → 証せらるる
家事・仕事でも同じ。
成果の自己所有が薄れ、出来事が出来事として進むとき、万法に証せられている。
7) 現代的読み替え——自己最適化からの離脱
自己啓発は「自己を強化」するが、道元は自己を透明化する。
| うまく生きようとする前に、
| 生がうまく進んでしまう構造に身を預けよ。
承認は内省でも外部評価でもない。世界の働きそのもの。
8) 落とし穴
・

自己放棄・無責任
・

反省や努力の否定
・

思考停止
自己を忘れるとは、注意と応答が最も精密になる地点に入ること。
ひと言で
仏道は、自己を磨いて完成させる道ではない。
自己を学び尽くしたところで主語が退き、
世界が先に進み出て、自己が証されてしまう——
その反転が、仏道の学びである。
さらに掘るなら、
・「身心脱落」との完全一致
・なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか
・日常で主語が退く“合図”の見分け方
どこを続けますか。