31.諸惡莫作
31.諸惡莫作
■31.諸惡莫作:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(3) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」を、道元禅師が独自の深遠な哲学で読み解いた一巻(0) 「諸悪莫作」の「莫作(まくさ:作るなかれ)」を、道元は単なる「禁止」ではなく、一つの「力量(パワー)」として捉えています。修行が進むと、悪を作ろうとしても「作ることができない(莫作が現成する)」状態になるとはどういうことでしょうか?(0) 「善悪は時なり、時は善悪にあらず」という言葉に注目してください。善や悪という性質が固定的にあるのではなく、その「時」そのものが善として現れ、悪として現れるという「時間の動態」についてどう思索しますか?(0) 道元は、修行者が「諸悪莫作」という教えを聞いた瞬間、それが「菩提の言葉(悟りの響き)」に転じると言います。言葉が単なる情報を超えて、私たちの身体を動かす「力」へと変わるプロセスをどう捉えますか?(0) 「山河大地、日月星辰までも修行せしむるなり。山河大地、日月星辰、かえってわれらを修行せしむるなり」という相互作用について。私たちが世界を修めるのではなく、世界によって自分が修められているという感覚を日常のどこに見出せますか?(0) 「諸悪は空にあらず、莫作なり」という表現があります。「空(何もない)」と言い切るのではなく、「莫作(生じない、作られない)」という動的な言葉を使うことで、道元は何を強調しようとしたのでしょうか?(0) 「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう:多くの善を奉じ行え)」において、善は磁石が鉄を引き寄せるよりも速く集まってくると説かれます。善行が個人の意志を超えて、宇宙的な勢い(増上力)を持って現れるというイメージをどう深掘りしますか?(0) 「声聞(小乗)の持戒は、菩薩(大乗)の破戒なり」という鋭い指摘があります。立場や時節によって善悪の基準が反転してしまうという事実は、私たちの「正義」や「正しさ」に対する執着をどう揺さぶりますか?(0) 「自浄其意(じじょうごい:自らその意を浄くす)」の「自」を、道元は「莫作の自」と呼びます。エゴとしての「自分」が心を掃除するのではなく、真理そのものが「自ら」を浄化していくという、無私の浄化について考察してください。(0) 白居易(白楽天)と鳥窠(ちょうか)和尚の問答について。「三歳の子でも言える」と笑った白居易に対し、和尚は「八十の翁でも行い難い」と返しました。なぜ知識として「知っている」ことと、身をもって「行う」ことの間には、これほどまでに深い断絶があるの(0) 道元は「三歳の子を侮る者は、三世の諸仏をも知らない愚か者だ」と厳しく断じます。幼子の「獅子吼(生まれたての真実の声)」に仏の説法を聞くことができる耳を、私たちはどうすれば持てるようになるでしょうか?(0) 31.諸惡莫作(4)
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(3) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」を、道元禅師が独自の深遠な哲学で読み解いた一巻(0) 「諸悪莫作」の「莫作(まくさ:作るなかれ)」を、道元は単なる「禁止」ではなく、一つの「力量(パワー)」として捉えています。修行が進むと、悪を作ろうとしても「作ることができない(莫作が現成する)」状態になるとはどういうことでしょうか?(0) 「善悪は時なり、時は善悪にあらず」という言葉に注目してください。善や悪という性質が固定的にあるのではなく、その「時」そのものが善として現れ、悪として現れるという「時間の動態」についてどう思索しますか?(0) 道元は、修行者が「諸悪莫作」という教えを聞いた瞬間、それが「菩提の言葉(悟りの響き)」に転じると言います。言葉が単なる情報を超えて、私たちの身体を動かす「力」へと変わるプロセスをどう捉えますか?(0) 「山河大地、日月星辰までも修行せしむるなり。山河大地、日月星辰、かえってわれらを修行せしむるなり」という相互作用について。私たちが世界を修めるのではなく、世界によって自分が修められているという感覚を日常のどこに見出せますか?(0) 「諸悪は空にあらず、莫作なり」という表現があります。「空(何もない)」と言い切るのではなく、「莫作(生じない、作られない)」という動的な言葉を使うことで、道元は何を強調しようとしたのでしょうか?(0) 「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう:多くの善を奉じ行え)」において、善は磁石が鉄を引き寄せるよりも速く集まってくると説かれます。善行が個人の意志を超えて、宇宙的な勢い(増上力)を持って現れるというイメージをどう深掘りしますか?(0) 「声聞(小乗)の持戒は、菩薩(大乗)の破戒なり」という鋭い指摘があります。立場や時節によって善悪の基準が反転してしまうという事実は、私たちの「正義」や「正しさ」に対する執着をどう揺さぶりますか?(0) 「自浄其意(じじょうごい:自らその意を浄くす)」の「自」を、道元は「莫作の自」と呼びます。エゴとしての「自分」が心を掃除するのではなく、真理そのものが「自ら」を浄化していくという、無私の浄化について考察してください。(0) 白居易(白楽天)と鳥窠(ちょうか)和尚の問答について。「三歳の子でも言える」と笑った白居易に対し、和尚は「八十の翁でも行い難い」と返しました。なぜ知識として「知っている」ことと、身をもって「行う」ことの間には、これほどまでに深い断絶があるの(0) 道元は「三歳の子を侮る者は、三世の諸仏をも知らない愚か者だ」と厳しく断じます。幼子の「獅子吼(生まれたての真実の声)」に仏の説法を聞くことができる耳を、私たちはどうすれば持てるようになるでしょうか?(0) 31.諸惡莫作(4)
「莫作」と 菩提達磨 ― 梁武帝 の「無功徳」公案
禅でよく知られる問答がある。
梁武帝は仏教を厚く保護した皇帝。
寺を建て、経を写し、僧を養った。
そこで達磨に問う。
| 朕、造寺度僧、写経無数。
| これ功徳ありや。
達磨は答える。
| 並びに無功徳。
この言葉は
禅の 莫作 を示す典型公案。
一 普通の理解
皇帝の理解
善行
↓
功徳
↓
悟り
つまり
行為の積み重ねで
仏道に近づく。
これは一般的な仏教理解。
二 達磨の否定
達磨は言う
無功徳
つまり
行為はあっても
功徳は成立しない。
なぜか。
行為の背後に
「私が善をした」
という
作為
があるから。
三 ここで莫作が現れる
莫作とは
作為がないこと。
もし
善を積もう
功徳を得よう
とするなら
それはすでに
作
である。
つまり
善を作る。
しかし
仏の行為は
莫作
四 禅の逆転
普通
行為
↓
功徳
禅では
功徳が成立する瞬間は
作為が消えたとき
つまり
無功徳
=
真功徳
五 達磨の第二の答え
梁武帝はさらに問う
| 如何なるか是れ聖諦第一義
達磨は言う
| 廓然無聖
広大で聖なるものもない。
ここでも
同じ構造。
聖
凡
という区別も
作為。
六 最後の問答
皇帝
| 朕に対する者は誰ぞ
達磨
| 不識
知らない。
ここで完全に
主体が崩れる。
七 莫作と無功徳
この公案の構造
善行
→ 作為
→ 功徳
これを達磨は壊す。
そして示す
莫作
つまり
行為は起こる
しかし
誰も作っていない。
八 禅の行為
禅の理想
・善をしようとしない
・功徳を求めない
しかし
結果として
最も深い善が現れる。
これを
無功用行
という。
九 莫作の宇宙性
禅では
莫作は人間の心理ではない。
月は昇る
川は流れる
風は吹く
誰も
功徳を求めない。
しかし
世界は完全に働いている。
これが
莫作の働き
十 禅の結論
達磨の無功徳とは
善を否定したのではない。
善を
作為から解放した
のである。
すると
善は
功徳として蓄積されるのではなく
仏の働きとして現れる
もし望めば次に
・「莫作」と 無心(慧能思想)
・「莫作」と 只管打坐(道元)
・「莫作」と 空思想(龍樹)
・「莫作」と 臨済の無位真人
ここは禅思想の最深部に入る。
禅でよく知られる問答がある。
梁武帝は仏教を厚く保護した皇帝。
寺を建て、経を写し、僧を養った。
そこで達磨に問う。
| 朕、造寺度僧、写経無数。
| これ功徳ありや。
達磨は答える。
| 並びに無功徳。
この言葉は
禅の 莫作 を示す典型公案。
一 普通の理解
皇帝の理解
善行
↓
功徳
↓
悟り
つまり
行為の積み重ねで
仏道に近づく。
これは一般的な仏教理解。
二 達磨の否定
達磨は言う
無功徳
つまり
行為はあっても
功徳は成立しない。
なぜか。
行為の背後に
「私が善をした」
という
作為
があるから。
三 ここで莫作が現れる
莫作とは
作為がないこと。
もし
善を積もう
功徳を得よう
とするなら
それはすでに
作
である。
つまり
善を作る。
しかし
仏の行為は
莫作
四 禅の逆転
普通
行為
↓
功徳
禅では
功徳が成立する瞬間は
作為が消えたとき
つまり
無功徳
=
真功徳
五 達磨の第二の答え
梁武帝はさらに問う
| 如何なるか是れ聖諦第一義
達磨は言う
| 廓然無聖
広大で聖なるものもない。
ここでも
同じ構造。
聖
凡
という区別も
作為。
六 最後の問答
皇帝
| 朕に対する者は誰ぞ
達磨
| 不識
知らない。
ここで完全に
主体が崩れる。
七 莫作と無功徳
この公案の構造
善行
→ 作為
→ 功徳
これを達磨は壊す。
そして示す
莫作
つまり
行為は起こる
しかし
誰も作っていない。
八 禅の行為
禅の理想
・善をしようとしない
・功徳を求めない
しかし
結果として
最も深い善が現れる。
これを
無功用行
という。
九 莫作の宇宙性
禅では
莫作は人間の心理ではない。
月は昇る
川は流れる
風は吹く
誰も
功徳を求めない。
しかし
世界は完全に働いている。
これが
莫作の働き
十 禅の結論
達磨の無功徳とは
善を否定したのではない。
善を
作為から解放した
のである。
すると
善は
功徳として蓄積されるのではなく
仏の働きとして現れる
もし望めば次に
・「莫作」と 無心(慧能思想)
・「莫作」と 只管打坐(道元)
・「莫作」と 空思想(龍樹)
・「莫作」と 臨済の無位真人
ここは禅思想の最深部に入る。
道元 の「諸悪莫作」思想
道元が説く 「諸悪莫作」 は、一般的な道徳命令とは全く別の意味をもつ。
それは 存在のあり方そのもの を示す語として理解される。
出発点は古い偈
| 諸悪莫作
| 衆善奉行
| 自浄其意
| 是諸仏教
道元はこれを 修行倫理ではなく仏の現成 として読む。
1 「悪をするな」ではない
普通の理解
・悪をやめる
・善を行う
しかし道元はこれを否定する。
諸悪莫作とは
悪を作らない努力
ではなく
悪が成立しないあり方
を示す。
つまり
悪を抑える修養ではない。
悪が生じない現成。
2 善悪は実体ではない
道元は善悪を
・固定した性質
・行為のラベル
とは見ない。
善悪とは
法の働き
つまり
存在の活動。
したがって
善悪は
・本体を持たない
・空である
しかし同時に
単なる空でもない。
それは
現成する働き
3 莫作とは「空の活動」
莫作とは
単なる否定ではない。
・作らない
・起こさない
という意味ではなく
作為が存在しない状態
つまり
無作
無為。
しかしこれは
消極的な静止ではない。
むしろ
仏の働きそのもの
4 修行と莫作
道元は重要な逆転を示す。
普通
修行
↓
悟り
しかし道元では
修行そのものが悟り
これを
修証一等
という。
諸悪莫作とは
修行の結果ではなく
修行そのものの姿
5 宇宙修行
道元はさらに言う。
山河大地
日月星辰
すべて
修行している。
つまり
修行主体は
人間ではない。
宇宙全体が
仏道を行じている。
その働きが
諸悪莫作。
6 衆善奉行との関係
莫作は
善悪を超えている。
しかし同時に
善が現れる。
ここで道元は言う。
善とは
奉行そのもの
善を行うのではない。
行われるところに
善が現れる。
7 自浄其意の意味
自浄其意とは
心をきれいにすることではない。
心そのものが
莫作として現れること。
つまり
心が仏として働くこと。
8 白居易公案の意味
白居易は言う
「三歳の子供でも言える」
禅師は答える
「八十の老人でもできない」
ここで道元が示すのは
理解
と
存在
の差。
言葉は簡単。
しかし
存在として生きることは難しい。
9 道元思想の核心
諸悪莫作は
・倫理ではない
・禁止ではない
・修養でもない
それは
仏の現成
つまり
仏の生き方そのもの。
10 極限の理解
道元の視点では
諸悪莫作とは
世界の本性。
存在そのものが
莫作として
働いている。
したがって
仏道とは
それを
坐禅によって直接生きること。
もし望むなら次はさらに深いところ、例えば
・道元「諸悪莫作」と 只管打坐 の関係
・「莫作」と 空・仏性 の関係
・禅公案としての 莫作
・存在論としての善悪
ここは禅思想の核心領域になる。
道元が説く 「諸悪莫作」 は、一般的な道徳命令とは全く別の意味をもつ。
それは 存在のあり方そのもの を示す語として理解される。
出発点は古い偈
| 諸悪莫作
| 衆善奉行
| 自浄其意
| 是諸仏教
道元はこれを 修行倫理ではなく仏の現成 として読む。
1 「悪をするな」ではない
普通の理解
・悪をやめる
・善を行う
しかし道元はこれを否定する。
諸悪莫作とは
悪を作らない努力
ではなく
悪が成立しないあり方
を示す。
つまり
悪を抑える修養ではない。
悪が生じない現成。
2 善悪は実体ではない
道元は善悪を
・固定した性質
・行為のラベル
とは見ない。
善悪とは
法の働き
つまり
存在の活動。
したがって
善悪は
・本体を持たない
・空である
しかし同時に
単なる空でもない。
それは
現成する働き
3 莫作とは「空の活動」
莫作とは
単なる否定ではない。
・作らない
・起こさない
という意味ではなく
作為が存在しない状態
つまり
無作
無為。
しかしこれは
消極的な静止ではない。
むしろ
仏の働きそのもの
4 修行と莫作
道元は重要な逆転を示す。
普通
修行
↓
悟り
しかし道元では
修行そのものが悟り
これを
修証一等
という。
諸悪莫作とは
修行の結果ではなく
修行そのものの姿
5 宇宙修行
道元はさらに言う。
山河大地
日月星辰
すべて
修行している。
つまり
修行主体は
人間ではない。
宇宙全体が
仏道を行じている。
その働きが
諸悪莫作。
6 衆善奉行との関係
莫作は
善悪を超えている。
しかし同時に
善が現れる。
ここで道元は言う。
善とは
奉行そのもの
善を行うのではない。
行われるところに
善が現れる。
7 自浄其意の意味
自浄其意とは
心をきれいにすることではない。
心そのものが
莫作として現れること。
つまり
心が仏として働くこと。
8 白居易公案の意味
白居易は言う
「三歳の子供でも言える」
禅師は答える
「八十の老人でもできない」
ここで道元が示すのは
理解
と
存在
の差。
言葉は簡単。
しかし
存在として生きることは難しい。
9 道元思想の核心
諸悪莫作は
・倫理ではない
・禁止ではない
・修養でもない
それは
仏の現成
つまり
仏の生き方そのもの。
10 極限の理解
道元の視点では
諸悪莫作とは
世界の本性。
存在そのものが
莫作として
働いている。
したがって
仏道とは
それを
坐禅によって直接生きること。
もし望むなら次はさらに深いところ、例えば
・道元「諸悪莫作」と 只管打坐 の関係
・「莫作」と 空・仏性 の関係
・禅公案としての 莫作
・存在論としての善悪
ここは禅思想の核心領域になる。
道元 の「諸悪莫作」思想
道元が説く 「諸悪莫作」 は、一般的な道徳命令とは全く別の意味をもつ。
それは 存在のあり方そのもの を示す語として理解される。
出発点は古い偈
| 諸悪莫作
| 衆善奉行
| 自浄其意
| 是諸仏教
道元はこれを 修行倫理ではなく仏の現成 として読む。
1 「悪をするな」ではない
普通の理解
・悪をやめる
・善を行う
しかし道元はこれを否定する。
諸悪莫作とは
悪を作らない努力
ではなく
悪が成立しないあり方
を示す。
つまり
悪を抑える修養ではない。
悪が生じない現成。
2 善悪は実体ではない
道元は善悪を
・固定した性質
・行為のラベル
とは見ない。
善悪とは
法の働き
つまり
存在の活動。
したがって
善悪は
・本体を持たない
・空である
しかし同時に
単なる空でもない。
それは
現成する働き
3 莫作とは「空の活動」
莫作とは
単なる否定ではない。
・作らない
・起こさない
という意味ではなく
作為が存在しない状態
つまり
無作
無為。
しかしこれは
消極的な静止ではない。
むしろ
仏の働きそのもの
4 修行と莫作
道元は重要な逆転を示す。
普通
修行
↓
悟り
しかし道元では
修行そのものが悟り
これを
修証一等
という。
諸悪莫作とは
修行の結果ではなく
修行そのものの姿
5 宇宙修行
道元はさらに言う。
山河大地
日月星辰
すべて
修行している。
つまり
修行主体は
人間ではない。
宇宙全体が
仏道を行じている。
その働きが
諸悪莫作。
6 衆善奉行との関係
莫作は
善悪を超えている。
しかし同時に
善が現れる。
ここで道元は言う。
善とは
奉行そのもの
善を行うのではない。
行われるところに
善が現れる。
7 自浄其意の意味
自浄其意とは
心をきれいにすることではない。
心そのものが
莫作として現れること。
つまり
心が仏として働くこと。
8 白居易公案の意味
白居易は言う
「三歳の子供でも言える」
禅師は答える
「八十の老人でもできない」
ここで道元が示すのは
理解
と
存在
の差。
言葉は簡単。
しかし
存在として生きることは難しい。
9 道元思想の核心
諸悪莫作は
・倫理ではない
・禁止ではない
・修養でもない
それは
仏の現成
つまり
仏の生き方そのもの。
10 極限の理解
道元の視点では
諸悪莫作とは
世界の本性。
存在そのものが
莫作として
働いている。
したがって
仏道とは
それを
坐禅によって直接生きること。
もし望むなら次はさらに深いところ、例えば
・道元「諸悪莫作」と 只管打坐 の関係
・「莫作」と 空・仏性 の関係
・禅公案としての 莫作
・存在論としての善悪
ここは禅思想の核心領域になる。
道元が説く 「諸悪莫作」 は、一般的な道徳命令とは全く別の意味をもつ。
それは 存在のあり方そのもの を示す語として理解される。
出発点は古い偈
| 諸悪莫作
| 衆善奉行
| 自浄其意
| 是諸仏教
道元はこれを 修行倫理ではなく仏の現成 として読む。
1 「悪をするな」ではない
普通の理解
・悪をやめる
・善を行う
しかし道元はこれを否定する。
諸悪莫作とは
悪を作らない努力
ではなく
悪が成立しないあり方
を示す。
つまり
悪を抑える修養ではない。
悪が生じない現成。
2 善悪は実体ではない
道元は善悪を
・固定した性質
・行為のラベル
とは見ない。
善悪とは
法の働き
つまり
存在の活動。
したがって
善悪は
・本体を持たない
・空である
しかし同時に
単なる空でもない。
それは
現成する働き
3 莫作とは「空の活動」
莫作とは
単なる否定ではない。
・作らない
・起こさない
という意味ではなく
作為が存在しない状態
つまり
無作
無為。
しかしこれは
消極的な静止ではない。
むしろ
仏の働きそのもの
4 修行と莫作
道元は重要な逆転を示す。
普通
修行
↓
悟り
しかし道元では
修行そのものが悟り
これを
修証一等
という。
諸悪莫作とは
修行の結果ではなく
修行そのものの姿
5 宇宙修行
道元はさらに言う。
山河大地
日月星辰
すべて
修行している。
つまり
修行主体は
人間ではない。
宇宙全体が
仏道を行じている。
その働きが
諸悪莫作。
6 衆善奉行との関係
莫作は
善悪を超えている。
しかし同時に
善が現れる。
ここで道元は言う。
善とは
奉行そのもの
善を行うのではない。
行われるところに
善が現れる。
7 自浄其意の意味
自浄其意とは
心をきれいにすることではない。
心そのものが
莫作として現れること。
つまり
心が仏として働くこと。
8 白居易公案の意味
白居易は言う
「三歳の子供でも言える」
禅師は答える
「八十の老人でもできない」
ここで道元が示すのは
理解
と
存在
の差。
言葉は簡単。
しかし
存在として生きることは難しい。
9 道元思想の核心
諸悪莫作は
・倫理ではない
・禁止ではない
・修養でもない
それは
仏の現成
つまり
仏の生き方そのもの。
10 極限の理解
道元の視点では
諸悪莫作とは
世界の本性。
存在そのものが
莫作として
働いている。
したがって
仏道とは
それを
坐禅によって直接生きること。
もし望むなら次はさらに深いところ、例えば
・道元「諸悪莫作」と 只管打坐 の関係
・「莫作」と 空・仏性 の関係
・禅公案としての 莫作
・存在論としての善悪
ここは禅思想の核心領域になる。
提示の文は、 にある
「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」 の深義を、仏道(とくに禅・道元系)の立場から徹底的に展開したもの。
表面は倫理句だが、本文では存在論・修行論・仏果論まで貫く根本公案として解体されている。
以下、仏道的に段階的に深掘る。
一 この句は「倫理」ではない
一般理解
・悪をするな
・善を行え
・心を清めよ
しかし本文は最初にこれを壊す。
| 「諸悪莫作ときこえざるは、仏正法にあらず、魔説なるべし」
つまり
仏法は必ずここから始まる
しかし同時に
倫理命令ではない
理由
本文の核心
| 諸悪の性これ無生なり
| 善性無記性等もまた無生なり
ここで一気に
空・無生の次元に入る。
つまり
善
悪
は
・本体を持たない
・固定存在ではない
二 善悪は存在ではなく「時」
本文の核心句
| 善悪は時なり
| 時は善悪にあらず
これは極めて深い。
普通の理解
善悪 → 行為の性質
仏道の理解
善悪 → 現成する働き
つまり
存在ではない
道元思想では
存在=時間
(有時)
つまり
善悪
=
時の現れ
三 諸悪莫作の本当の意味
普通理解
悪を作るな
しかし本文は言う
| 諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり
ここが仏道の核心。
悪を
・抑える
・禁止する
ではない。
悪とは
莫作として現れている
つまり
悪とは
作られない働き
四 修行とは何か
ここで驚く言葉が出る
| 山河大地、日月星辰までも修行せしむる
| 山河大地、日月星辰、かへりてわれらを修行せしむる
これは禅の宇宙観。
修行主体
人間
ではない。
修行とは
宇宙の運動
山
河
月
星
すべて
修行。
そして
それが
人を修行させている。
五 莫作とは空ではない
本文はさらに否定する
| 諸悪は空にあらず、莫作なり
| 諸悪は色にあらず、莫作なり
つまり
空でもない
有でもない
ただ
莫作
仏教哲学ではこれを
中道現成
という。
六 衆善奉行の意味
普通理解
善行を積む
しかし本文
| 作善の正当恁麼時、きたらざる衆善なし
意味
善を作ると
善が増える
のではない。
善が行われる時
宇宙全体が善として現れる
つまり
一善
=
万善
七 因果の理解も逆転
普通
因 → 果
しかし本文
| 因円満し、果円満す
| 前後にあらず
仏道では
因果
同時現成
八 自浄其意とは何か
ここが最深部
| 自浄其意とは
| 莫作の自なり
| 奉行の意なり
つまり
心をきれいにする
ではない。
自浄
=
莫作そのもの
つまり
心が消えること
九 白居易公案の意味
話
白居易
「三歳の子供でも言える」
禅師
「八十の老人でもできない」
意味
理解
≠
実行
仏法は
理解ではなく
現成
十 この文章の最終結論
すべてまとめると
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
とは
倫理
修養
心理
ではない。
それは
仏の存在様式
つまり
仏とは
莫作として現れ
奉行として働き
自浄として生きる
その
宇宙の運動
十一 禅的最終理解
この句は
仏教の中で
最短の完全経典
とも言われる。
理由
この四句に
・戒
・定
・慧
・仏果
すべて含む。
もし望むなら、さらに
・道元の「諸悪莫作」思想
・禅における莫作公案
・空思想との関係
・仏性との関係
まで
仏道レベルで極限まで深掘りできる。
ここから先は
かなり深い禅哲学領域に入る。
「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」 の深義を、仏道(とくに禅・道元系)の立場から徹底的に展開したもの。
表面は倫理句だが、本文では存在論・修行論・仏果論まで貫く根本公案として解体されている。
以下、仏道的に段階的に深掘る。
一 この句は「倫理」ではない
一般理解
・悪をするな
・善を行え
・心を清めよ
しかし本文は最初にこれを壊す。
| 「諸悪莫作ときこえざるは、仏正法にあらず、魔説なるべし」
つまり
仏法は必ずここから始まる
しかし同時に
倫理命令ではない
理由
本文の核心
| 諸悪の性これ無生なり
| 善性無記性等もまた無生なり
ここで一気に
空・無生の次元に入る。
つまり
善
悪
は
・本体を持たない
・固定存在ではない
二 善悪は存在ではなく「時」
本文の核心句
| 善悪は時なり
| 時は善悪にあらず
これは極めて深い。
普通の理解
善悪 → 行為の性質
仏道の理解
善悪 → 現成する働き
つまり
存在ではない
道元思想では
存在=時間
(有時)
つまり
善悪
=
時の現れ
三 諸悪莫作の本当の意味
普通理解
悪を作るな
しかし本文は言う
| 諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり
ここが仏道の核心。
悪を
・抑える
・禁止する
ではない。
悪とは
莫作として現れている
つまり
悪とは
作られない働き
四 修行とは何か
ここで驚く言葉が出る
| 山河大地、日月星辰までも修行せしむる
| 山河大地、日月星辰、かへりてわれらを修行せしむる
これは禅の宇宙観。
修行主体
人間
ではない。
修行とは
宇宙の運動
山
河
月
星
すべて
修行。
そして
それが
人を修行させている。
五 莫作とは空ではない
本文はさらに否定する
| 諸悪は空にあらず、莫作なり
| 諸悪は色にあらず、莫作なり
つまり
空でもない
有でもない
ただ
莫作
仏教哲学ではこれを
中道現成
という。
六 衆善奉行の意味
普通理解
善行を積む
しかし本文
| 作善の正当恁麼時、きたらざる衆善なし
意味
善を作ると
善が増える
のではない。
善が行われる時
宇宙全体が善として現れる
つまり
一善
=
万善
七 因果の理解も逆転
普通
因 → 果
しかし本文
| 因円満し、果円満す
| 前後にあらず
仏道では
因果
同時現成
八 自浄其意とは何か
ここが最深部
| 自浄其意とは
| 莫作の自なり
| 奉行の意なり
つまり
心をきれいにする
ではない。
自浄
=
莫作そのもの
つまり
心が消えること
九 白居易公案の意味
話
白居易
「三歳の子供でも言える」
禅師
「八十の老人でもできない」
意味
理解
≠
実行
仏法は
理解ではなく
現成
十 この文章の最終結論
すべてまとめると
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
とは
倫理
修養
心理
ではない。
それは
仏の存在様式
つまり
仏とは
莫作として現れ
奉行として働き
自浄として生きる
その
宇宙の運動
十一 禅的最終理解
この句は
仏教の中で
最短の完全経典
とも言われる。
理由
この四句に
・戒
・定
・慧
・仏果
すべて含む。
もし望むなら、さらに
・道元の「諸悪莫作」思想
・禅における莫作公案
・空思想との関係
・仏性との関係
まで
仏道レベルで極限まで深掘りできる。
ここから先は
かなり深い禅哲学領域に入る。
31.諸惡莫作