観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、
渾身の照見五蘊皆空なり。
——『正法眼蔵』巻二「摩訶般若波羅蜜」/道元

この一句は、『般若心経』の文を解説しているのではありません。
「悟りとは何か」を説明する言葉を、根こそぎ無効化するための一句です。
道元はここで、般若を理解・観察・境地から引き剥がし、生の運行そのものへと引き戻します。

1) 観自在菩薩——「観る者」が消えた観

一般には「観自在菩薩=慈悲深く観る主体」と理解されがちです。
しかし道元において重要なのは人格ではありません。

| 観自在とは、
| 観る主体が自在なのではなく、
| 観が主体から自由になっている在り方。

・誰が観ているか、が問題にならない
・観察する私が立たない

主語なき観——それが観自在。

2) 行深——深い理解、ではない

「行深」を「高度な智慧」「深い悟り」と読むと外れます。

| 行深とは、
| 行為に“退路がない”こと。

・理解に逃げない
・観念に逃げない
・成果や境地に逃げない

生き方そのものが行になっている。
その逃げ場のなさを、道元は「深」と呼びます。

3) 般若波羅蜜多時——到達点ではなく運行中

「〜時」は、悟りの瞬間を指しません。

| 般若が“働いている最中”。

悟ったから般若があるのではない。
般若が運行している現在が「時」。

4) 渾身——全存在の否定不能性

ここが道元の決定点です。

| 渾身=身体・感情・思考・衝動・判断、すべて込み。

・心だけではない
・認識だけではない
・体験の一部でもない

切り落とせない全体。

般若は、頭脳の働きではなく、
生の総体的な運行として現れる。

5) 照見——観ることではない

照見を「正しく観察する」と読むと、主語が復活します。

| 照見とは、
| 五蘊が五蘊として起動し、
| 主語に回収されずに“明るい”こと。

誰かが照らすのではない。
出来事そのものが、遮られずに明るい。

6) 五蘊皆空——結果ではなく事実

ここが最大の誤読点です。

・五蘊を分析した結果、空だと分かった ❌
・観察して空性を理解した ❌

| 五蘊が、そのまま空として働いている、という事実記述。

色・受・想・行・識は、

・所有されず
・固定されず
・足し引きされない

その状態を「皆空」と言う。

7) この一句が切断するもの

道元は、この一句で以下を断ち切ります。

・「迷い → 修行 → 悟り」という順序
・「煩悩を除いて智慧に至る」二段論
・「見る者/見られるもの」の構図

| 順序と主体が立った瞬間、般若は失われる。

8) 坐禅・日常への即応

・坐禅で思考を排除しない
・感情を清めようとしない
・身体を道具にしない

| 起きているすべてを、
| 主語に回収せずに通す。

それが「渾身の照見」。

9) 現代的に言い換える

| 悟ろうとするな。
| 理解しようとするな。
| 生を部分に分けるな。
| 逃げずに全部を生きていれば、
| それがそのまま、照見だ。


ひと言で凝縮すると

「渾身の照見五蘊皆空」とは、
悟りを“見る力”にしないための一句。
生の全体が主語を失って運行している現在——
それ自体が、般若波羅蜜多である。

——ここで道元は、
智慧を「理解」から「生き方」へ完全に引き下ろします。
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。
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