正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)
正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)
■27.夢中説夢:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(2) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 27.夢中説夢(0) 「夢中説夢は諸仏なり」という一文は、私たちの「夢」と「現実(覚)」の境界線をどう書き換えていますか?(0) 道元は「明明たる百草(鮮やかな草木)」を「夢なり」と言い切ります。この「夢」は、私たちが寝ている間に見る個人的な夢と何が違うのでしょうか?(0) 「迷中又迷(迷いの中の迷い)」であっても、それが「通霄(つうしょう)の路(悟りへ通じる道)」になり得るのはなぜですか?(0) 「葛藤をうゑて葛藤をまつふ、これ無上菩提の性相なり」という言葉は、私たちの煩悩や人間関係のしがらみをどう肯定していますか?(0) 「頭上安頭(頭の上に頭を置く)」という言葉は、通常「無駄な重複」を戒める言葉ですが、道元はこれを「仏祖の行履(実践)」として称賛しています。なぜですか?(0) 「眼処(げんじょ)に聞声し、心処(しんじょ)に聞声す」という、時空を超えた聞法のありようをどう捉えますか?(0) 釈迦が夢の中で国王の座を捨て、出家し、悟りを開くという経文を、道元は「譬喩にあらず」と断じます。これが「比喩ではない」とはどういう意味でしょうか?(0) 「夢覚(むかく)もとより如一(にょいつ)なり、実相なり」という境地に立ったとき、私たちの「死」や「涅槃」の見え方はどう変わりますか?(0) 「秤子(はかり)」の例えにおいて、空中にぶら下がっていても「平(たいら)」を現成させるという描写は何を象徴していますか?(0) 「好夢(こうむ)は諸仏なり」という結論は、あなたの「今、ここ」の日常をどう祝福していますか?(0) 正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)(1)
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(2) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 27.夢中説夢(0) 「夢中説夢は諸仏なり」という一文は、私たちの「夢」と「現実(覚)」の境界線をどう書き換えていますか?(0) 道元は「明明たる百草(鮮やかな草木)」を「夢なり」と言い切ります。この「夢」は、私たちが寝ている間に見る個人的な夢と何が違うのでしょうか?(0) 「迷中又迷(迷いの中の迷い)」であっても、それが「通霄(つうしょう)の路(悟りへ通じる道)」になり得るのはなぜですか?(0) 「葛藤をうゑて葛藤をまつふ、これ無上菩提の性相なり」という言葉は、私たちの煩悩や人間関係のしがらみをどう肯定していますか?(0) 「頭上安頭(頭の上に頭を置く)」という言葉は、通常「無駄な重複」を戒める言葉ですが、道元はこれを「仏祖の行履(実践)」として称賛しています。なぜですか?(0) 「眼処(げんじょ)に聞声し、心処(しんじょ)に聞声す」という、時空を超えた聞法のありようをどう捉えますか?(0) 釈迦が夢の中で国王の座を捨て、出家し、悟りを開くという経文を、道元は「譬喩にあらず」と断じます。これが「比喩ではない」とはどういう意味でしょうか?(0) 「夢覚(むかく)もとより如一(にょいつ)なり、実相なり」という境地に立ったとき、私たちの「死」や「涅槃」の見え方はどう変わりますか?(0) 「秤子(はかり)」の例えにおいて、空中にぶら下がっていても「平(たいら)」を現成させるという描写は何を象徴していますか?(0) 「好夢(こうむ)は諸仏なり」という結論は、あなたの「今、ここ」の日常をどう祝福していますか?(0) 正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)(1)
正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)
それ諸仏諸祖の現成するところ、夢中説夢なり。夢中説夢というは、夢のなかに夢を説くにあらず、説夢のところ夢中を現成せしむるなり。しかあるを、衆生おおくは夢を説かるるを聞きて、夢の外に説ありとおもう。説を聞く耳すでに夢なり、夢を分別する心また説なり。このゆえに、夢のために説あり、説のために夢あるにあらず。夢すでに説を夢見し、説すでに夢を説示するなり。
いわゆる夢とは、眠裏の妄想とのみ参学することなかれ。昼夜去来の前後を超越して、現成公案そのものの自己覆蔵自己発露するところ、これを夢という。説とは、舌端の音声文字とのみ会取することなかれ。山河大地の布演、草木叢林の転法、皮肉骨髄の脱落、これみな説なり。しかあれば、夢の自己を夢見するところ、説すでに説を説く。説の自己を説示するところ、夢また夢を夢見するなり。ゆえに夢中説夢は、夢説・説夢にあらず、夢夢・説説にあらず、夢説説夢なるべし。
古仏いわく、夢裏説夢、説裏夢夢。この道取、たやすく会すべからず。夢裏説夢というは、夢の裡に閉じこもりて夢を論ずるにあらず。夢そのものに裡外なきがゆえに、裡をたつれば夢にあらず、外をたつれば説にあらず。しかあるに、裡外未生以前より夢は夢を覆蔵し、説は説を発明す。ゆえに夢中に説夢あり、説中に夢夢あり。夢中の説夢を逐えば説失す、説中の夢夢を捉うれば夢壊す。夢壊すれば説また立たず、説失すれば夢また全からず。しかも夢壊れず、説失せず。ここをもって仏祖の家常とす。
いま衆生おおく、夢は妄なり、説は真なりとおもう。あやまりなり。また夢は虚なり、説は実なりとおもう。あやまりなり。もし説を真実として夢を排せば、その真実すでに夢中の真実なり。もし夢を虚妄として説を建立せば、その建立すでに夢裏の建立なり。ゆえに夢は説に倒れず、説は夢に倒れず。夢説相倒せずして相入し、相入して相礙せず。相礙せざるゆえに、夢中説夢なる正当恁麼時あり。
しかあるに、夢を説くとき、誰人かこれを説く。もし人ありて、われ夢を説くという、そのわれすでに夢の夢見るわれなり。もしまた、夢おのずから夢を説くという、そのおのずからすでに説中の夢なり。もし説おのずから説を説くという、その説すでに夢に夢見せらるる説なり。ゆえに説者なし、聞者なし、夢者なし、覚者なしと会するは外道断滅の邪見なり。説者あり、聞者あり、夢者あり、覚者ありと会するは常見の繋驢橛なり。説者あって説者にあらず、聞者あって聞者にあらず、夢者あって夢者にあらず、覚者あって覚者にあらず。ここに夢中説夢の鼻孔あり。
古徳いわく、夢説夢聴、聴説説夢。この道理、聴に二種あり。耳根に属する聴あり、尽界に透脱する聴あり。耳根に属する聴は音声を逐う。尽界に透脱する聴は無声を聴くにあらず、音声をも無声をも脱落せしめて、聴をして聴を聴かしむるなり。かくのごとくの聴、夢の裡に夢を聴き、説の裡に説を聴く。これすなわち聴裏説夢なり。ゆえに一塵の起こるも説、万象の黙するも説、ひとたび瞼を閉ずるも夢、終日まなこを開くも夢なり。開眼閉眼ともに夢説を具足し、夢説ともに開眼閉眼を現成す。
しかあれば、覚中に夢を説くにあらず、夢中に覚を説くにあらず。覚もし夢を対待して立せば覚にあらず。夢もし覚を待対して起これば夢にあらず。対待未成のところに夢中説夢あり。対待既成のところにも夢中説夢あり。未成既成、ともに夢中説夢の手脚なり。しかれども未成既成に繋縛せらるることなかれ。繋縛せらるるとき、夢は夢を忘ず、説は説を忘ず。夢説たがいに自己の皮袋となる。このとき一句道著すれば千錯万錯なり、道著せざれば万錯千錯なり。ゆえに古仏、あえて錯をおそれずして錯中道著するなり。この道著すなわち夢中説夢なり。
いわゆる文字般若を夢外の消息と会することなかれ。文字は夢の骨髄なり。夢は文字の皮肉なり。文字もし夢外にあるべしといわば、いまだ一字をも見ず。夢もし文字外にあるべしといわば、いまだ一夢をも見ず。しかあるを、或人、言語道断を称して言語をすつ。これ夢を怖るる病なり。或人、不立文字を談じて文字に著す。これ説に酔う狂なり。言語をすつるも言語なり、文字に著するも文字なり。捨著ともに夢説の枝葉なるべし。しかれども枝葉を離れて根本をもとむることなかれ。枝葉すなわち根本の現成なり。根本すなわち枝葉の脱落なり。ゆえに一句半偈、尽界を道取し、一黙一笑、無辺を説尽す。
夢中説夢を参学するに、先師の道をただ句裏に索むることなかれ。ただ句裏に索むれば句皮を得て句髄を失う。また句外に索むることなかれ。句外に索むれば句髄を妄想して句皮を破る。句裏句外ともに夢説の方便なり。句にあたれば句に跳び、句を離るれば句に沈む。跳沈ともに夢説の活路なり。ここをもって、古仏の一句、未道以前に円成し、道後にあらたに円成するなり。未道以前に円成するゆえにいまだ道わずして道い、道後に円成するゆえに道いてなお未道なり。未道・道後、ともに夢中説夢の時節因縁なり。
たとえば、人、夢において仏を見、仏、夢において人を説く。このとき、人は仏を夢見るか、仏は人を夢見するか。もし人の夢という、仏を失う。もし仏の説という、人を失う。人仏ともに失わずして人仏ともに定まらざるところ、夢中説夢の親切あり。仏は人を説いて仏を夢み、人は仏を夢みて人を説く。説夢互換して毫末も紊乱せず。ゆえに見仏聞法は夢にあらずと会するなかれ、夢なりと会するなかれ。見仏聞法の当処すなわち夢中説夢の眼睛なり。
あるいは問う、もし一切夢中説夢ならば、修証いかん。いわく、この問著すでに修証なり。問を夢とみて修証を棄つるは断滅の外道なり。問を真とみて夢説を排するは常見の凡流なり。問著そのままに夢中説夢なり、夢中説夢そのままに修証一等なり。修は夢を修するにあらず、夢修の自己現成なり。証は説を証するにあらず、説証の自己透脱なり。自己現成自己透脱を修証と称するも、なほ仮称なり。仮称なれども徒称にあらず。徒称にあらざるがゆえに、仮称すでに実参なり。ここにおいて、夢説の仮実、修証の前後、ことごとく一条の鉄漢機となる。
しかあれば知るべし、夢を説くとき夢さらに深しということなかれ。夢を説かざるとき夢ついに尽くるということなかれ。説夢のところ、深浅ともに夢見せられ、夢説のところ、尽不尽ともに説示せらる。ゆえに深き夢は浅きを蔵し、浅き説は深きを現ず。蔵現同時なるを夢中説夢といわん。しかも同時に著すれば同時にあらず、不同時を立つれば不同時にあらず。同不同、ともに夢説の屑となる。屑を掃わんとすれば夢説ますます積もる。積屑を安んずれば尽界清浄なり。これを古仏、塵説刹夢と道取するなり。
夢の自己言及とは、自己を顧みて自己を説くとおもうことなかれ。自己まだ成ぜざるに先立ちて、夢すでに自己を夢見し、説すでに自己を道取するなり。自己後成といえども、夢説それを待たず。自己先成といえども、夢説それを用いず。待不待・用不用の蹤跡を絶したるところに、自己言及の真正伝あり。ゆえに自己を道うるに、自己これを聞くにあらず。自己を聞くに、自己これを道うるにあらず。道聞ともに自己に先立ち、道聞ともに自己に後るるなり。先後一如と会して停滞することなかれ。先後それぞれ先後を夢見し、先後それぞれ先後を説示するゆえに、先後ともに夢中説夢なり。
まことに、正法眼蔵涅槃妙心は、夢の滅尽したる灰寒木枯の境をいうにあらず。夢を夢として全夢し、説を説として全説するとき、灰寒木枯また花開世界起の消息を蔵す。花開世界起を欣求することなかれ。欣求すればただちに花に迷い、世界に眩ず。灰寒木枯を厭離することなかれ。厭離すればただちに灰を夢み、木を説く。欣厭ともに夢説の活計なり。活計を脱落するとき、活計尽地に随落するにあらず。活計そのまま仏祖家風となる。家風とは夢中説夢の風骨なり。
ゆえにいま、坐禅も夢中説夢なり。袈裟も夢中説夢なり。粥飯も夢中説夢なり。転読も黙照も呵仏罵祖も、ことごとく夢中説夢なり。夢中説夢を厭うて無事をもとむるは、夢を夢みて説を説くなり。夢中説夢を愛して奇特をもとむるも、夢を夢みて説を説くなり。厭愛ともに夢説の重担なり。重担を荷負するものは誰人ぞ。夢説これを荷負し、荷負これを夢説するなり。ここをもって、仏祖の行履、一步のなかに百千夢説を具足し、百千夢説のなかに一步をも遺失せず。
ついにいうべし、夢中説夢は、夢をもて夢を説くにあらず、説をもて夢を飾るにあらず。夢説同参、説夢同死、同生同脱の現成するところ、かりに夢中説夢と称ずるのみなり。称ずるのみといえども、この称、尽十方界を穿却す。穿却するといえども、一塵を動かさず。一塵を動かさずといえども、無量劫の古今ただいま舌頭上に転ぜらる。これすなわち、
夢を説く舌頭、すでに夢なり。
夢を聞く身心、もとより説なり。
夢説たがいに自己を参学して、
参学のところ正法眼蔵現成するなり。
これを夢中説夢巻という。
それ諸仏諸祖の現成するところ、夢中説夢なり。夢中説夢というは、夢のなかに夢を説くにあらず、説夢のところ夢中を現成せしむるなり。しかあるを、衆生おおくは夢を説かるるを聞きて、夢の外に説ありとおもう。説を聞く耳すでに夢なり、夢を分別する心また説なり。このゆえに、夢のために説あり、説のために夢あるにあらず。夢すでに説を夢見し、説すでに夢を説示するなり。
いわゆる夢とは、眠裏の妄想とのみ参学することなかれ。昼夜去来の前後を超越して、現成公案そのものの自己覆蔵自己発露するところ、これを夢という。説とは、舌端の音声文字とのみ会取することなかれ。山河大地の布演、草木叢林の転法、皮肉骨髄の脱落、これみな説なり。しかあれば、夢の自己を夢見するところ、説すでに説を説く。説の自己を説示するところ、夢また夢を夢見するなり。ゆえに夢中説夢は、夢説・説夢にあらず、夢夢・説説にあらず、夢説説夢なるべし。
古仏いわく、夢裏説夢、説裏夢夢。この道取、たやすく会すべからず。夢裏説夢というは、夢の裡に閉じこもりて夢を論ずるにあらず。夢そのものに裡外なきがゆえに、裡をたつれば夢にあらず、外をたつれば説にあらず。しかあるに、裡外未生以前より夢は夢を覆蔵し、説は説を発明す。ゆえに夢中に説夢あり、説中に夢夢あり。夢中の説夢を逐えば説失す、説中の夢夢を捉うれば夢壊す。夢壊すれば説また立たず、説失すれば夢また全からず。しかも夢壊れず、説失せず。ここをもって仏祖の家常とす。
いま衆生おおく、夢は妄なり、説は真なりとおもう。あやまりなり。また夢は虚なり、説は実なりとおもう。あやまりなり。もし説を真実として夢を排せば、その真実すでに夢中の真実なり。もし夢を虚妄として説を建立せば、その建立すでに夢裏の建立なり。ゆえに夢は説に倒れず、説は夢に倒れず。夢説相倒せずして相入し、相入して相礙せず。相礙せざるゆえに、夢中説夢なる正当恁麼時あり。
しかあるに、夢を説くとき、誰人かこれを説く。もし人ありて、われ夢を説くという、そのわれすでに夢の夢見るわれなり。もしまた、夢おのずから夢を説くという、そのおのずからすでに説中の夢なり。もし説おのずから説を説くという、その説すでに夢に夢見せらるる説なり。ゆえに説者なし、聞者なし、夢者なし、覚者なしと会するは外道断滅の邪見なり。説者あり、聞者あり、夢者あり、覚者ありと会するは常見の繋驢橛なり。説者あって説者にあらず、聞者あって聞者にあらず、夢者あって夢者にあらず、覚者あって覚者にあらず。ここに夢中説夢の鼻孔あり。
古徳いわく、夢説夢聴、聴説説夢。この道理、聴に二種あり。耳根に属する聴あり、尽界に透脱する聴あり。耳根に属する聴は音声を逐う。尽界に透脱する聴は無声を聴くにあらず、音声をも無声をも脱落せしめて、聴をして聴を聴かしむるなり。かくのごとくの聴、夢の裡に夢を聴き、説の裡に説を聴く。これすなわち聴裏説夢なり。ゆえに一塵の起こるも説、万象の黙するも説、ひとたび瞼を閉ずるも夢、終日まなこを開くも夢なり。開眼閉眼ともに夢説を具足し、夢説ともに開眼閉眼を現成す。
しかあれば、覚中に夢を説くにあらず、夢中に覚を説くにあらず。覚もし夢を対待して立せば覚にあらず。夢もし覚を待対して起これば夢にあらず。対待未成のところに夢中説夢あり。対待既成のところにも夢中説夢あり。未成既成、ともに夢中説夢の手脚なり。しかれども未成既成に繋縛せらるることなかれ。繋縛せらるるとき、夢は夢を忘ず、説は説を忘ず。夢説たがいに自己の皮袋となる。このとき一句道著すれば千錯万錯なり、道著せざれば万錯千錯なり。ゆえに古仏、あえて錯をおそれずして錯中道著するなり。この道著すなわち夢中説夢なり。
いわゆる文字般若を夢外の消息と会することなかれ。文字は夢の骨髄なり。夢は文字の皮肉なり。文字もし夢外にあるべしといわば、いまだ一字をも見ず。夢もし文字外にあるべしといわば、いまだ一夢をも見ず。しかあるを、或人、言語道断を称して言語をすつ。これ夢を怖るる病なり。或人、不立文字を談じて文字に著す。これ説に酔う狂なり。言語をすつるも言語なり、文字に著するも文字なり。捨著ともに夢説の枝葉なるべし。しかれども枝葉を離れて根本をもとむることなかれ。枝葉すなわち根本の現成なり。根本すなわち枝葉の脱落なり。ゆえに一句半偈、尽界を道取し、一黙一笑、無辺を説尽す。
夢中説夢を参学するに、先師の道をただ句裏に索むることなかれ。ただ句裏に索むれば句皮を得て句髄を失う。また句外に索むることなかれ。句外に索むれば句髄を妄想して句皮を破る。句裏句外ともに夢説の方便なり。句にあたれば句に跳び、句を離るれば句に沈む。跳沈ともに夢説の活路なり。ここをもって、古仏の一句、未道以前に円成し、道後にあらたに円成するなり。未道以前に円成するゆえにいまだ道わずして道い、道後に円成するゆえに道いてなお未道なり。未道・道後、ともに夢中説夢の時節因縁なり。
たとえば、人、夢において仏を見、仏、夢において人を説く。このとき、人は仏を夢見るか、仏は人を夢見するか。もし人の夢という、仏を失う。もし仏の説という、人を失う。人仏ともに失わずして人仏ともに定まらざるところ、夢中説夢の親切あり。仏は人を説いて仏を夢み、人は仏を夢みて人を説く。説夢互換して毫末も紊乱せず。ゆえに見仏聞法は夢にあらずと会するなかれ、夢なりと会するなかれ。見仏聞法の当処すなわち夢中説夢の眼睛なり。
あるいは問う、もし一切夢中説夢ならば、修証いかん。いわく、この問著すでに修証なり。問を夢とみて修証を棄つるは断滅の外道なり。問を真とみて夢説を排するは常見の凡流なり。問著そのままに夢中説夢なり、夢中説夢そのままに修証一等なり。修は夢を修するにあらず、夢修の自己現成なり。証は説を証するにあらず、説証の自己透脱なり。自己現成自己透脱を修証と称するも、なほ仮称なり。仮称なれども徒称にあらず。徒称にあらざるがゆえに、仮称すでに実参なり。ここにおいて、夢説の仮実、修証の前後、ことごとく一条の鉄漢機となる。
しかあれば知るべし、夢を説くとき夢さらに深しということなかれ。夢を説かざるとき夢ついに尽くるということなかれ。説夢のところ、深浅ともに夢見せられ、夢説のところ、尽不尽ともに説示せらる。ゆえに深き夢は浅きを蔵し、浅き説は深きを現ず。蔵現同時なるを夢中説夢といわん。しかも同時に著すれば同時にあらず、不同時を立つれば不同時にあらず。同不同、ともに夢説の屑となる。屑を掃わんとすれば夢説ますます積もる。積屑を安んずれば尽界清浄なり。これを古仏、塵説刹夢と道取するなり。
夢の自己言及とは、自己を顧みて自己を説くとおもうことなかれ。自己まだ成ぜざるに先立ちて、夢すでに自己を夢見し、説すでに自己を道取するなり。自己後成といえども、夢説それを待たず。自己先成といえども、夢説それを用いず。待不待・用不用の蹤跡を絶したるところに、自己言及の真正伝あり。ゆえに自己を道うるに、自己これを聞くにあらず。自己を聞くに、自己これを道うるにあらず。道聞ともに自己に先立ち、道聞ともに自己に後るるなり。先後一如と会して停滞することなかれ。先後それぞれ先後を夢見し、先後それぞれ先後を説示するゆえに、先後ともに夢中説夢なり。
まことに、正法眼蔵涅槃妙心は、夢の滅尽したる灰寒木枯の境をいうにあらず。夢を夢として全夢し、説を説として全説するとき、灰寒木枯また花開世界起の消息を蔵す。花開世界起を欣求することなかれ。欣求すればただちに花に迷い、世界に眩ず。灰寒木枯を厭離することなかれ。厭離すればただちに灰を夢み、木を説く。欣厭ともに夢説の活計なり。活計を脱落するとき、活計尽地に随落するにあらず。活計そのまま仏祖家風となる。家風とは夢中説夢の風骨なり。
ゆえにいま、坐禅も夢中説夢なり。袈裟も夢中説夢なり。粥飯も夢中説夢なり。転読も黙照も呵仏罵祖も、ことごとく夢中説夢なり。夢中説夢を厭うて無事をもとむるは、夢を夢みて説を説くなり。夢中説夢を愛して奇特をもとむるも、夢を夢みて説を説くなり。厭愛ともに夢説の重担なり。重担を荷負するものは誰人ぞ。夢説これを荷負し、荷負これを夢説するなり。ここをもって、仏祖の行履、一步のなかに百千夢説を具足し、百千夢説のなかに一步をも遺失せず。
ついにいうべし、夢中説夢は、夢をもて夢を説くにあらず、説をもて夢を飾るにあらず。夢説同参、説夢同死、同生同脱の現成するところ、かりに夢中説夢と称ずるのみなり。称ずるのみといえども、この称、尽十方界を穿却す。穿却するといえども、一塵を動かさず。一塵を動かさずといえども、無量劫の古今ただいま舌頭上に転ぜらる。これすなわち、
夢を説く舌頭、すでに夢なり。
夢を聞く身心、もとより説なり。
夢説たがいに自己を参学して、
参学のところ正法眼蔵現成するなり。
これを夢中説夢巻という。
正法眼蔵 夢中説夢巻(擬作・超高密度版)