尽十方といふは、逐物為己、逐己為物(物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す)の未休なり。

尽十方といふは、逐物為己、逐己為物(物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す)の未休なり。情生智隔(情生ずれば智隔たる)を隔と道取する、これ囘頭換面なり、展事投機なり。逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり。
  是一顆珠は、いまだ名にあらざれども道得なり、これを名に認じきたることあり。一顆珠は、直須万年なり。亙古未了なるに、亙今到来なり。身今あり、心今ありといへども明珠なり。彼此の草木にあらず、乾坤の山河にあらず、明珠なり。
  学人如何会得。この道取は、たとひ僧の弄業識に相似せりとも、大用現、是大軌則なり。すすみて一尺水、一尺波を突兀ならしむべし。いはゆる一丈珠、一丈明なり。
いはゆるの道得を道取するに、玄沙の道は尽十方世界是一顆明珠、用会作麼なり。この道取は、仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣し、玄沙は玄沙に嗣する道得なり。嗣せざらんと廻避せんに、廻避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然廻避するも、道取生あるは現前の蓋時節なり。
  玄沙来日問其僧、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会。
  これは道取す、昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日説不定法なり、推倒昨日點頭笑なり。
  僧曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼。
  いふべし騎賊馬逐賊(賊馬に騎て賊を逐ふ)なり。
この一段は、『正法眼蔵・一顆明珠』の中でも、「尽十方」「会得」「道取」がどう働くかを、言語と修行の極限で示す箇所です。
ここでは仏道的に深掘りする視点を、①尽十方の動態、②逐物・逐己の転倒、③名以前の明珠、④会得と道取、⑤玄沙問答の意味、の五層で示します。

①「尽十方」は広がりではなく〈未休の運動〉

| 尽十方といふは、逐物為己、逐己為物の未休なり。

尽十方=宇宙全体、という量的理解は誤りです。
ここで言う尽十方は、

・物を追って自己となり
・自己を追って物となる

この入れ替わりが止まらない運動そのもの。


主体/客体が確定する前の、入れ替わり続ける働き
それが「尽十方」。

② 情生智隔を「隔」と取ること自体が転身

| 情生智隔を隔と道取する、これ囘頭換面なり

普通は

・情が起きる → 智が遮られる(悪いこと)

しかし道元は違う。

仏道的転換

・「隔たった」と気づくこと自体が
 すでに囘頭換面(向きが変わること)


迷いを排除しない。
迷いが迷いとして現れるところが転身。

③ 一顆珠は「名ではないが、道得である」

| 是一顆珠は、いまだ名にあらざれども道得なり

ここが決定的です。

・明珠は「概念」ではない
・しかし「沈黙」でもない


名以前に、すでに言われている(道得)。

だから

| これを名に認じきたることあり

名前を与えた瞬間にズレるが、
ズレることすら明珠の働き。

④ 「身今あり、心今あり」もまた明珠

| 身今あり、心今ありといへども明珠なり

これは重要です。

・身心脱落したから明珠なのではない
・身も心も「今ある」そのままで明珠


理想状態を設定した瞬間に、明珠を小量化する。

⑤ 会得とは「理解」ではない

| 学人如何会得。

この問いに対し、
会得=分かること、ではありません。

| たとひ僧の弄業識に相似せりとも、大用現、是大軌則なり

・業識(迷い)に見えても
・そこで用が現れているなら、それが会得


正しさではなく、働きがあるかどうか。

⑥ 一尺水一尺波 ― 明珠は比例して現れる

| 一丈珠、一丈明なり

・大きく悟れば大きく明るい、ではない
・その場その場の全力で現れる


小さな実践に小さな明珠があるのではない。
小さな実践そのものが、尽十方の明珠。

⑦ 玄沙の道取 ― 会得を破壊する問い

ここで登場するのが
玄沙師備。

| 尽十方世界是一顆明珠、用会作麼。

これは説明要求ではありません。

仏道的意味

・「会得しようとする心」そのものを照らす問い
・理解しようとした瞬間に外れる構造を暴く

僧の答え:
| 尽十方世界是一顆明珠、用会作麼。


問いをそのまま返す。

⑧ 騎賊馬逐賊 ― 自己を使って自己を追う

| 騎賊馬逐賊

・賊を追うのに、賊の馬に乗っている
・正しさで迷いを倒そうとする構造そのもの

しかし道元は、これを否定しません。


それ以外に道はない。

⑨ 仏道的総結

この段が示す仏道の核心は、ここに集約されます。

| 尽十方とは、
| 完成された全体ではない。
| 会得しようとして外れ、
| 外れながら働き続ける未休の運動である。

・会得しようとする心も明珠
・会得できない苦しさも明珠
・問いも答えも明珠


一句で言えば

| 明珠とは、
| わかろうとする力が
| つねに自分自身を追い越していく、その運動である。

必要であれば、

・「逐物為己/逐己為物」と現代的自己意識
・「会得」と坐禅体験の関係
・この段と『現成公案』『有時』の照応

まで、さらに深く掘り下げられます。
尽十方といふは、逐物為己、逐己為物(物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す)の未休なり。情生智隔(情生ずれば智隔たる)を隔と道取する、これ囘頭換面なり、展事投機なり。逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり。
  是一顆珠は、いまだ名にあらざれども道得なり、これを名に認じきたることあり。一顆珠は、直須万年なり。亙古未了なるに、亙今到来なり。身今あり、心今ありといへども明珠なり。彼此の草木にあらず、乾坤の山河にあらず、明珠なり。
  学人如何会得。この道取は、たとひ僧の弄業識に相似せりとも、大用現、是大軌則なり。すすみて一尺水、一尺波を突兀ならしむべし。いはゆる一丈珠、一丈明なり。
いはゆるの道得を道取するに、玄沙の道は尽十方世界是一顆明珠、用会作麼なり。この道取は、仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣し、玄沙は玄沙に嗣する道得なり。嗣せざらんと廻避せんに、廻避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然廻避するも、道取生あるは現前の蓋時節なり。
  玄沙来日問其僧、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会。
  これは道取す、昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日説不定法なり、推倒昨日點頭笑なり。
  僧曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼。
  いふべし騎賊馬逐賊(賊馬に騎て賊を逐ふ)なり。
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