「趙州狗子」―『無門関』第1則
「趙州狗子」―『無門関』第1則
■公案:公案 ■
★注目スレッド: 公案に「答え」はあるのか?──問いの意味とゴールのあり方(0) 公案は誰のためのものか?──一般人も取り組むべき修行なのか?(0) 公案の“理不尽さ”は修行に必要か?──論理を超えるトレーニングとしての意義(0) 仏道とは、 明珠になることではない。 明珠として疑い、迷い、生き切ることである。(0) 仏道は、 得ることでも 理解することでも 正しく生きることでもない。 すでに迷いの只中で、 全身として働いている。(0) | 黒山鬼窟を歩いている足取りそのものが、 | すでに一顆明珠の転轆である。(0) 仏道は、 正しい言葉を言えることではない。 正しい理解を持つことでもない。 それらを“自分のもの”にした瞬間、 黒山鬼窟に入る。(0) 尽十方世界是一顆明珠は、 会得された瞬間に失われ、 失われてもなお、現前している。(0) 虚空を掴め?(0) 「国師三喚(こくしさんかん)」―『無門関』第17則(2) 「趙州狗子」―『無門関』第1則(1) 「南泉斬猫」―『無門関』第14則(0)
★注目スレッド: 公案に「答え」はあるのか?──問いの意味とゴールのあり方(0) 公案は誰のためのものか?──一般人も取り組むべき修行なのか?(0) 公案の“理不尽さ”は修行に必要か?──論理を超えるトレーニングとしての意義(0) 仏道とは、 明珠になることではない。 明珠として疑い、迷い、生き切ることである。(0) 仏道は、 得ることでも 理解することでも 正しく生きることでもない。 すでに迷いの只中で、 全身として働いている。(0) | 黒山鬼窟を歩いている足取りそのものが、 | すでに一顆明珠の転轆である。(0) 仏道は、 正しい言葉を言えることではない。 正しい理解を持つことでもない。 それらを“自分のもの”にした瞬間、 黒山鬼窟に入る。(0) 尽十方世界是一顆明珠は、 会得された瞬間に失われ、 失われてもなお、現前している。(0) 虚空を掴め?(0) 「国師三喚(こくしさんかん)」―『無門関』第17則(2) 「趙州狗子」―『無門関』第1則(1) 「南泉斬猫」―『無門関』第14則(0)
では改めて、
「趙州狗子」―『無門関』第1則を
仏道(=生き方そのものとしての道)の次元で、腰を据えて深掘りします。
まず結論(仏道的核心)
趙州狗子は、
「仏とは何か」を問う公案ではない。
「仏道を“求めてしまう心”そのものを断つ公案である。
だから答えは説明でも思想でもなく、
「無」しかありえなかった。
1. 問いはすでに仏道からズレている
弟子はこう問います:
| 「狗子(犬)にも仏性ありや、無しや」
一見、まじめで仏教的な質問ですが、
仏道的に見ると、ここで決定的なズレが起きています。
何がズレているか
・仏性を「ある/ない」で測れる対象にした
・仏を「持っているかどうか」で判断する性質にした
・自分を「判断者」の位置に置いた
この瞬間、
仏道は“生きられる道”から“理解される対象”に落ちた。
2. 趙州の「無」は否定ではない
ここで趙州は答えます:
| 無
これは、
・「仏性は無い」という主張でも
・「経典と違う」と言っているわけでもない
仏道的に何が起きたか
趙州の「無」は:
・問いを成立させている地盤を切る
・「ある/ない」という思考装置を破壊する
・仏道を再び“生の現場”に引き戻す
答えではなく、問いそのものを無効化する一撃。
3. なぜ「無」でなければならなかったか
もし趙州が:
・「ある」と言えば → 仏性は所有物になる
・「ない」と言えば → 仏性は概念として否定される
・黙れば → 黙秘が意味化される
どれも仏道ではない。
「無」だけが、
意味が立ち上がる前で、
しかも即時に打ち返せる言葉だった。
だからこれは
| 「無という答え」
| ではなく
| 「無という行為」
4. 仏道的に見る「無」とは何か
仏道の文脈での「無」は:
・空理論ではない
・虚無主義ではない
・思想でもない
“今、ここで生きている事実を遮るものが無い”という働き
つまり:
・思考が無い
・自己操作が無い
・仏になろうとする意図が無い
その切断そのものが仏道。
5. 無門慧開の視点(第1則に置いた理由)
無門はこの公案を第1則に置いた。
これは構成上、極めて重要です。
仏道修行の入口として
無門は言っている:
| 仏道に入る前に、
| 「仏道を理解しようとする心」をまず殺せ。
・公案を解こうとするな
・仏性を知ろうとするな
・悟りを得ようとするな
それら全部が入口での迷いだから。
6. 仏道として生きるときの「狗子」
仏道的に言えば:
・狗子は「仏性がある存在」でも
・「仏性がない存在」でもない
吠えるときに吠え、
歩くときに歩いている――
それ以上でも以下でもない存在。
だから実は:
・狗子こそ仏道を妨げていない
・問うている人間の方が妨げている
最後に、仏道的まとめ
・仏道は「知ったとき」に始まらない
・仏道は「答えを得たとき」に成立しない
・仏道は
問う以前、意味づけ以前、
生がそのまま動いているところにある
だから趙州は:
| 無
と言った。
それは拒絶でも冷酷でもなく、
最短距離で仏道に戻すための慈悲だった。
もし次に進むなら、かなり深いところまで行けます:
・ 「無」と坐禅の関係
・ 道元は狗子をどう読むか
・ なぜこの公案は一生終わらないのか
どこ、行きましょう。
「趙州狗子」―『無門関』第1則を
仏道(=生き方そのものとしての道)の次元で、腰を据えて深掘りします。
まず結論(仏道的核心)
趙州狗子は、
「仏とは何か」を問う公案ではない。
「仏道を“求めてしまう心”そのものを断つ公案である。
だから答えは説明でも思想でもなく、
「無」しかありえなかった。
1. 問いはすでに仏道からズレている
弟子はこう問います:
| 「狗子(犬)にも仏性ありや、無しや」
一見、まじめで仏教的な質問ですが、
仏道的に見ると、ここで決定的なズレが起きています。
何がズレているか
・仏性を「ある/ない」で測れる対象にした
・仏を「持っているかどうか」で判断する性質にした
・自分を「判断者」の位置に置いた
この瞬間、
仏道は“生きられる道”から“理解される対象”に落ちた。
2. 趙州の「無」は否定ではない
ここで趙州は答えます:
| 無
これは、
・「仏性は無い」という主張でも
・「経典と違う」と言っているわけでもない
仏道的に何が起きたか
趙州の「無」は:
・問いを成立させている地盤を切る
・「ある/ない」という思考装置を破壊する
・仏道を再び“生の現場”に引き戻す
答えではなく、問いそのものを無効化する一撃。
3. なぜ「無」でなければならなかったか
もし趙州が:
・「ある」と言えば → 仏性は所有物になる
・「ない」と言えば → 仏性は概念として否定される
・黙れば → 黙秘が意味化される
どれも仏道ではない。
「無」だけが、
意味が立ち上がる前で、
しかも即時に打ち返せる言葉だった。
だからこれは
| 「無という答え」
| ではなく
| 「無という行為」
4. 仏道的に見る「無」とは何か
仏道の文脈での「無」は:
・空理論ではない
・虚無主義ではない
・思想でもない
“今、ここで生きている事実を遮るものが無い”という働き
つまり:
・思考が無い
・自己操作が無い
・仏になろうとする意図が無い
その切断そのものが仏道。
5. 無門慧開の視点(第1則に置いた理由)
無門はこの公案を第1則に置いた。
これは構成上、極めて重要です。
仏道修行の入口として
無門は言っている:
| 仏道に入る前に、
| 「仏道を理解しようとする心」をまず殺せ。
・公案を解こうとするな
・仏性を知ろうとするな
・悟りを得ようとするな
それら全部が入口での迷いだから。
6. 仏道として生きるときの「狗子」
仏道的に言えば:
・狗子は「仏性がある存在」でも
・「仏性がない存在」でもない
吠えるときに吠え、
歩くときに歩いている――
それ以上でも以下でもない存在。
だから実は:
・狗子こそ仏道を妨げていない
・問うている人間の方が妨げている
最後に、仏道的まとめ
・仏道は「知ったとき」に始まらない
・仏道は「答えを得たとき」に成立しない
・仏道は
問う以前、意味づけ以前、
生がそのまま動いているところにある
だから趙州は:
| 無
と言った。
それは拒絶でも冷酷でもなく、
最短距離で仏道に戻すための慈悲だった。
もし次に進むなら、かなり深いところまで行けます:
・ 「無」と坐禅の関係
・ 道元は狗子をどう読むか
・ なぜこの公案は一生終わらないのか
どこ、行きましょう。
「趙州狗子」―『無門関』第1則