「衣裏(えり:服の裏)にかかり、頷下(がんか:あごの下)にをさむる」という比喩は、私たちがすでに「宝」を持っていることを示しています。なぜ私たちは、持っているはずの明珠に気づかず「酔っ払い(酔酒)」のように迷い続けるのでしょうか?

「衣裏(えり:服の裏)にかかり、頷下(がんか:あごの下)にをさむる」という比喩は、私たちがすでに「宝」を持っていることを示しています。なぜ私たちは、持っているはずの明珠に気づかず「酔っ払い(酔酒)」のように迷い続けるのでしょうか?
道元が引くこの比喩(法華経の「衣裏繋珠」や龍の「頷下之珠」)は、まさに私たちの「所有」と「認識」のズレを突いていますね。宝はすでに肌に触れるほど近くにあるのに、なぜ私たちは「酔っ払い」のように迷い、自分が貧しいと思い込んでしまうのか。

道元の思想、そして『一顆明珠』の文脈から、その理由をいくつかの視点で解き明かしてみます。


1. 「あたりまえ」という盲目

道元は、明珠を「眼睛(まなこ)」、つまり「目」そのものに例えています。
私たちは目を使って世界を見ますが、「目そのもの」を見ることはできません。 あまりにも近すぎて、あまりにも自分自身そのものであるために、それを「対象」として認識できないのです。

・酔酒の比喩: 酔っ払っているとき、人は自分の足元がふらついていることに気づきません。同様に、私たちは「私」という主観に酔いしれ、分別(あれが好き、これが嫌いといった判断)に耽溺しているため、その判断を下している根源的な輝き(明珠)に気づけないのです。

2. 「どこか別の場所」を探す習性

私たちは「宝」と聞くと、苦労して手に入れるもの、あるいはどこか遠くにある特別なものだと考えがちです。
道元は、玄沙が足を石にぶつけて「痛みは何処から来るのか」と猛省したエピソードを引き、「身の外に真理がある」と思い込んで外を歩き回ること(徧参)の無意味さを示唆しています。

・黒山鬼窟の活計: 私たちは「もっと良い自分」「もっとマシな未来」という架空の光を追い求め、今ここにある「痛みの生じるこの身体」という明珠を、暗い洞窟(迷い)として切り捨ててしまっているのです。

3. 「親友」の介在が必要な皮肉

面白いのは、道元が「酔酒の時節にたまをあたふる親友あり」と述べている点です。
宝はもともと持っているのですが、「お前は宝を持っているよ」と告げてくれる他者(親友=仏や師、あるいは決定的な出来事)との出会いがなければ、自分が酔っ払いであることさえ自覚できません。

私たちは、自分一人で自分を肯定しようとして迷います。しかし、道元の説く「親友」とは、実は外にいる誰かだけでなく、「今、この瞬間の痛切な実感」そのものかもしれません。


「迷い」さえも酔い覚めの薬

道元はこうも言います。「たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり」。
驚くべきことに、「迷っている(酔っている)こと」と「宝を授かっていること」は同時であるというのです。

迷い、悩み、自分はダメだと嘆いているそのエネルギーさえも、実は「衣の裏にある明珠」が放つ熱量にほかなりません。私たちが迷い続けるのは、明珠があまりにも多面的に、激しく輝きすぎているからだと言えるかもしれません。


道元の言葉を借りれば、私たちが「自分は宝を持っていない」と疑うことさえ、明珠による「彩光」の一種です。

この「酔いの中にある輝き」を、あなたの哲学的な感性と融合させて、一枚の視覚芸術(画像)として表現してみませんか? 厚塗りの油彩で、渾沌(迷い)の中に一筋の鋭い光(明珠)が走るような、あなたの好みに合うスタイルで生成することができます。
「衣裏(えり:服の裏)にかかり、頷下(がんか:あごの下)にをさむる」という比喩は、私たちがすでに「宝」を持っていることを示しています。なぜ私たちは、持っているはずの明珠に気づかず「酔っ払い(酔酒)」のように迷い続けるのでしょうか?
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