その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか

その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか


とても正確で、そして一番ごまかせない問いです。
ここを曖昧にすると、眼睛は即座に「直感主義」や「好き勝手」の免罪符になります。

結論から、はっきり言います。

| 眼睛において
| 「必要な行為かどうか」を判断する方法は、存在しない。

そして同時に、

| 判断しようとした瞬間、
| すでに「その場」を外れている。

──これが道元の立場です。

以下、誤解が起きないように厳密に説明します。

1️⃣ まず「判断」という語を解体する

通常、判断とはこうです:
1. 状況を把握する
2. 選択肢を比較する
3. 正しそうなものを選ぶ

これはすべて、

・時間的猶予
・主体的距離
・評価基準

を前提にしています。
眼睛では、この前提が成立しない。

2️⃣ 「その場で必要」という言葉の誤解

ここが最大の落とし穴です。

❌ その場で“最適”
❌ その場で“正解”
❌ その場で“うまくいく”

ではありません。

道元的な「必要」とは:
| 起きてしまっている、という事実

・迷いながら言葉が出る
・躊躇しつつ手が動く
・何もできず立ち尽くす
これらもすべて「その場の行為」

行為の質で選別されない。

3️⃣ では、無差別・無秩序なのか?

ここで必ず出る不安:
| 何をしても「必要だった」と言えてしまうのでは?

答えは NO。

なぜなら眼睛では、

| あとから「正当化」する場所がない

・あれは必要だった
・あれは間違いだった

という評価は、
すでに眼睛ではなく、反省や社会の言語。

道元はそれを否定しないが、
そこに仏道を置かない。

4️⃣ 重要:眼睛は「直感」ではない

よくある誤解です。

・考えないで動く
・頭を空っぽにする
・直感に従う

これらはすべて、

| 「うまく判断できる私」を温存する技法

眼睛は、
その「うまくやれる私」ごと崩す。

5️⃣ では、修行や戒律は何のためにあるのか

ここで初めて、

・只管打坐
・作務
・戒律

の意味が見えてきます。

それらは:
| 正しい行為を選ぶためではない


判断を洗練させるためでもない

では何か。

| 判断し続けてしまう癖を、
| 日常の具体性に引き戻すため

・座る
・掃く
・食べる
・眠る


判断の余白を減らす

6️⃣ 「判断しない」と「考えない」は違う

とても大事です。

・判断しない ≠ 思考停止
・判断しない ≠ 無責任

眼睛では:
| 考えは起きるが、
| それに立脚しない

・迷いはある
・恐れもある
・後悔もある
それでも、行為は起きてしまう。

7️⃣ では、誤った行為はどうなるのか

ここを避けてはいけません。

眼睛では:
・誤りは起きる
・傷つけることもある
・取り返しのつかないこともある

しかし:
| 「私は正しかった/間違っていた」
| という最終判断を引き受ける主体が立たない

だから、

・懺悔はある
・修正もある
・責任は逃げない

が、

| 自己物語にならない

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| その場で必要かどうかは、
| 行為の前にはわからない。
| 行為の後にも、決定できない。
| ただ、行為は起きてしまう。

これが眼睛。

9️⃣ とても大事な確認(最後)

もしあなたが今、

・それでは怖すぎる
・判断基準が欲しい
・何かに頼りたい

と感じているなら、
それは健全です。

道元はその不安を消さない。

| 不安のまま、
| 生を引き受ける以外に、
| 誠実さはない

それが眼睛における行為。


最後の一行

| 眼睛では、
| 正しく行おうとする前に、
| すでに生きてしまっている。

ここまで来たら、残るのは本当に一つだけです。

・眼睛における「生死」
・なぜ道元は涅槃を拒否するのか

どこまで行きますか。
58.眼睛正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 『眼睛』と『身心脱落』の厳密な差(0)  眼睛は倫理や行為とどう関わるのか(0)  『眼睛』と『虚空』の厳密な差(0)  眼睛と「慈悲」は両立するのか(0)  その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか(0)  『眼睛』と『虚空』と『古鏡』の厳密な差(0)  眼睛における「生死」(0)  『眼睛』と『有時』の厳密な差(0)  道元が「なぜ眼睛」を書かねばならなかったのか(0)  坐禅と眼睛の関係は(0)  眼睛を語れなくなるために、 座禅する?(0)  悟りと眼睛の関係(0)  億千万劫の参学を拈来して団欒せしむるは、八万四千の眼睛なり。 先師天童古仏、住瑞巌時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。(1)  洞山悟本大師、在雲巌会時、遇雲巌作鞋次、師白雲巌曰、就和尚乞眼睛(洞山悟本大師、雲巌の会に在りし時、雲巌の作鞋に遇ふ次でに、師、雲巌に白して曰く、和尚に就いて眼睛を乞はん)。 雲巌曰、汝底与阿誰去也(汝底を阿誰にか与へ去るや)。(1)  先師古仏云く、抉出達磨眼睛、作泥團子打人(達磨の眼睛を抉出して、泥團子と作して打人す)。 高声云、著。海枯徹底過、波浪拍天高(著。海枯れて徹底過なり、波浪天を拍つて高し)。 これは清涼寺の方丈にして、海衆に為示するなり。しかあれば、打人とい(1) 
その場で必要な行為かそうでない行為かはどうやって判断するのか


とても正確で、そして一番ごまかせない問いです。
ここを曖昧にすると、眼睛は即座に「直感主義」や「好き勝手」の免罪符になります。

結論から、はっきり言います。

| 眼睛において
| 「必要な行為かどうか」を判断する方法は、存在しない。

そして同時に、

| 判断しようとした瞬間、
| すでに「その場」を外れている。

──これが道元の立場です。

以下、誤解が起きないように厳密に説明します。

1️⃣ まず「判断」という語を解体する

通常、判断とはこうです:
1. 状況を把握する
2. 選択肢を比較する
3. 正しそうなものを選ぶ

これはすべて、

・時間的猶予
・主体的距離
・評価基準

を前提にしています。
眼睛では、この前提が成立しない。

2️⃣ 「その場で必要」という言葉の誤解

ここが最大の落とし穴です。

❌ その場で“最適”
❌ その場で“正解”
❌ その場で“うまくいく”

ではありません。

道元的な「必要」とは:
| 起きてしまっている、という事実

・迷いながら言葉が出る
・躊躇しつつ手が動く
・何もできず立ち尽くす
これらもすべて「その場の行為」

行為の質で選別されない。

3️⃣ では、無差別・無秩序なのか?

ここで必ず出る不安:
| 何をしても「必要だった」と言えてしまうのでは?

答えは NO。

なぜなら眼睛では、

| あとから「正当化」する場所がない

・あれは必要だった
・あれは間違いだった

という評価は、
すでに眼睛ではなく、反省や社会の言語。

道元はそれを否定しないが、
そこに仏道を置かない。

4️⃣ 重要:眼睛は「直感」ではない

よくある誤解です。

・考えないで動く
・頭を空っぽにする
・直感に従う

これらはすべて、

| 「うまく判断できる私」を温存する技法

眼睛は、
その「うまくやれる私」ごと崩す。

5️⃣ では、修行や戒律は何のためにあるのか

ここで初めて、

・只管打坐
・作務
・戒律

の意味が見えてきます。

それらは:
| 正しい行為を選ぶためではない


判断を洗練させるためでもない

では何か。

| 判断し続けてしまう癖を、
| 日常の具体性に引き戻すため

・座る
・掃く
・食べる
・眠る


判断の余白を減らす

6️⃣ 「判断しない」と「考えない」は違う

とても大事です。

・判断しない ≠ 思考停止
・判断しない ≠ 無責任

眼睛では:
| 考えは起きるが、
| それに立脚しない

・迷いはある
・恐れもある
・後悔もある
それでも、行為は起きてしまう。

7️⃣ では、誤った行為はどうなるのか

ここを避けてはいけません。

眼睛では:
・誤りは起きる
・傷つけることもある
・取り返しのつかないこともある

しかし:
| 「私は正しかった/間違っていた」
| という最終判断を引き受ける主体が立たない

だから、

・懺悔はある
・修正もある
・責任は逃げない

が、

| 自己物語にならない

8️⃣ 一言で言うなら(核心)

| その場で必要かどうかは、
| 行為の前にはわからない。
| 行為の後にも、決定できない。
| ただ、行為は起きてしまう。

これが眼睛。

9️⃣ とても大事な確認(最後)

もしあなたが今、

・それでは怖すぎる
・判断基準が欲しい
・何かに頼りたい

と感じているなら、
それは健全です。

道元はその不安を消さない。

| 不安のまま、
| 生を引き受ける以外に、
| 誠実さはない

それが眼睛における行為。


最後の一行

| 眼睛では、
| 正しく行おうとする前に、
| すでに生きてしまっている。

ここまで来たら、残るのは本当に一つだけです。

・眼睛における「生死」
・なぜ道元は涅槃を拒否するのか

どこまで行きますか。