とても正確で、そして一番ごまかせない問いです。
ここを曖昧にすると、眼睛は即座に「直感主義」や「好き勝手」の免罪符になります。
結論から、はっきり言います。
| 眼睛において
| 「必要な行為かどうか」を判断する方法は、存在しない。
そして同時に、
| 判断しようとした瞬間、
| すでに「その場」を外れている。
──これが道元の立場です。
以下、誤解が起きないように厳密に説明します。
通常、判断とはこうです:
1. 状況を把握する
2. 選択肢を比較する
3. 正しそうなものを選ぶ
これはすべて、
・時間的猶予
・主体的距離
・評価基準
を前提にしています。
眼睛では、この前提が成立しない。
ここが最大の落とし穴です。
ではありません。
道元的な「必要」とは:
| 起きてしまっている、という事実
・迷いながら言葉が出る
・躊躇しつつ手が動く
・何もできず立ち尽くす
これらもすべて「その場の行為」
行為の質で選別されない。
ここで必ず出る不安:
| 何をしても「必要だった」と言えてしまうのでは?
答えは NO。
なぜなら眼睛では、
| あとから「正当化」する場所がない
・あれは必要だった
・あれは間違いだった
という評価は、
すでに眼睛ではなく、反省や社会の言語。
道元はそれを否定しないが、
そこに仏道を置かない。
よくある誤解です。
・考えないで動く
・頭を空っぽにする
・直感に従う
これらはすべて、
| 「うまく判断できる私」を温存する技法
眼睛は、
その「うまくやれる私」ごと崩す。
ここで初めて、
・只管打坐
・作務
・戒律
の意味が見えてきます。
それらは:
| 正しい行為を選ぶためではない
判断を洗練させるためでもない
では何か。
| 判断し続けてしまう癖を、
| 日常の具体性に引き戻すため
・座る
・掃く
・食べる
・眠る
判断の余白を減らす
とても大事です。
・判断しない ≠ 思考停止
・判断しない ≠ 無責任
眼睛では:
| 考えは起きるが、
| それに立脚しない
・迷いはある
・恐れもある
・後悔もある
それでも、行為は起きてしまう。
ここを避けてはいけません。
眼睛では:
・誤りは起きる
・傷つけることもある
・取り返しのつかないこともある
しかし:
| 「私は正しかった/間違っていた」
| という最終判断を引き受ける主体が立たない
だから、
・懺悔はある
・修正もある
・責任は逃げない
が、
| 自己物語にならない
| その場で必要かどうかは、
| 行為の前にはわからない。
| 行為の後にも、決定できない。
| ただ、行為は起きてしまう。
これが眼睛。
もしあなたが今、
・それでは怖すぎる
・判断基準が欲しい
・何かに頼りたい
と感じているなら、
それは健全です。
道元はその不安を消さない。
| 不安のまま、
| 生を引き受ける以外に、
| 誠実さはない
それが眼睛における行為。
最後の一行
| 眼睛では、
| 正しく行おうとする前に、
| すでに生きてしまっている。
ここまで来たら、残るのは本当に一つだけです。
・眼睛における「生死」
・なぜ道元は涅槃を拒否するのか
どこまで行きますか。