この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
この一句は『弁道話』全体の心臓部であり、
道元が仏道における最大の誤解を、静かに、しかし完全に断ち切る言葉です。

| 「本来具足」と「修行不要」を結びつける誤解
| ――それを一刀で断っています。

以下、仏道的に深掘りします。

一、まず文の構造をそのまま受け取る

| この法は、人人の分上にゆたかにそなはれり
| といへども
| いまだ修せざるにはあらはれず、
| 証せざるにはうることなし。

重要なのは、
前半と後半が対立していないことです。

・本来具足している
・しかし修しなければ現れない
・証さなければ得られない

これは矛盾ではなく、同一の事実を別角度から言っている。

二、「人人の分上にそなはれり」──安心ではなく、逃げ場を塞ぐ言葉

ここで言われる「そなはれり」は、

・潜在的に持っている
・内側に秘めている

という意味ではありません。

仏道的に言えば

・すでに完全に働いている
・欠けも余りもない

ということ。

しかし、ここで多くの人が誤解する。

| 「すでにあるなら、
| 何もしなくてよいのではないか」

道元は、その誤解を次の一句で完全に潰す。

三、「修せざるにはあらはれず」──本来具足は“見えない”

ここが決定的です。

「あらはれず」とは何か

・ない ❌
・足りない ❌

ではなく、

| 現成しない
| 作動しない
| 生き方として現れない

という意味。

つまり、

・仏法はある
・しかし修行という形を取らない限り
  世界に現れてこない

比喩的に言えば

・火はある
・しかし擦らなければ火は起きない
火を「作る」のではない火を「起こしてしまう」

修行とは、まさにこれ。

四、「証せざるにはうることなし」──理解では得られない

ここで道元は、理解・納得・思想をすべて排除します。

・わかった
・腑に落ちた
・理解した

それらはすべて、

| 「得た」ことにはならない

なぜか

「得る」とは、

・知識を所有することではなく
・生き方として受用していること

だから、

・証=体験 ❌
・証=実感 ❌
証=そのまま生きてしまっていること

五、この一句が否定している二つの極端

道元は、両方を否定します。

① 修行至上主義(努力論)

・修しなければならない
・まだ足りない
・いつか悟る
否定される
なぜなら「本来具足」を見ていない。

② 本覚放逸(何もしない論)

・すでに仏
・そのままでよい
・修行は方便
これも否定
なぜなら「現れない」ことを無視している。

六、修証一等への直結

この一句は、のちに展開される

| 修証これ一等なり

の予告文です。

・修 → 証への手段 ❌
・証 → 修を不要にする結果 ❌
修していることそのものが、証の現成

だから、

・修行中の迷い
・うまく坐れない感じ
・雑念だらけの時間

それらを理由に、

| 「まだ証ではない」

と思った瞬間、
すでにこの一句から外れている。

七、坐禅との直結(実践的視点)

この一句を、坐禅に即して言い換えるなら:
| 仏道は、
| 坐らなくても、すでに満ちている。
|
| しかし、坐らなければ、
| 坐っているという形では現れない。

・坐ることで仏になるのではない
・坐ることで、仏道が坐ってしまう

八、仏道的核心(一点に集約)

| 本来具足とは、
| 修行を免除する言葉ではない。
|
| 修行から逃げる余地を、
| 完全に塞ぐ言葉である。

結び(修行者への一句)

| 修しない理由は、
| もうどこにも残っていない。
|
| しかし、修しても
| 何かを得ようとしてはならない。

この緊張の一点に、
道元の仏道があります。
この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
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