自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。
しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
——道元(『正法眼蔵』)
この一句は、道元思想の最終防衛線です。
悟り・自己・主体・証明——それらが成立しないまま、なお仏道が働いている構造を、ここまで露骨に言い切った文は他にありません。
1) 「覚知しない」——悟りの自己意識が消える
| 自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず
決定的なのはここ。
諸仏が諸仏であるとき、「私は仏だ」という自己認識が存在しない。
・自覚していないから未熟
・謙遜しているだけ
| 覚知が立たないこと自体が、仏であるという現成。
悟りを“知る”という回路が、ここで完全に切断されます。
2) 「自己は諸仏なり」は禁句
衆生が最も言いたくなる一言——
| 「私も仏である」
道元は、これを仏道の外に置く。
なぜなら、
・「私」
・「である」
・「仏」
という三点がそろった瞬間、所有と同一化が始まるから。
| 仏は、自己像として成立した瞬間に失われる。
3) しかし「証仏なり」——否定で終わらない
前半は徹底した否定。
だが道元は、空虚に落とさない。
| しかあれども証仏なり
ここが恐ろしく精密です。
・仏だと覚知しない
・しかし、仏を証している
主体が消えても、働きは消えない。
4) 「仏を証しもてゆく」——主語の完全転倒
通常は、
・私が → 仏を証する
しかし道元は逆。
| 仏が仏を証しつづけている運動が、
| たまたまこの身心として現れている。
・私が悟る
・悟りが私を通過していく
ここでは、
・成果
・到達
・完成
という時間軸も成立しません。
5) 修証一等の最終形
これまでの句が、ここで一つに収束します。
・迷を大悟するは諸仏
・悟に大迷なるは衆生
・悟上に得悟する漢あり
それらの着地点がこれ。
| 悟りを自覚しないところで、
| なお修証は止まらず進行している。
だから修証一等は、
・修=証
・修と証が、主体なしに相互に起動し続ける運動
6) 坐禅の現場で何が起きているか
坐禅中に、
・「今日は深い」
・「無になった」
・「これが悟りか」
——この瞬間、すでにズレる。
一方、
・坐っている
・評価が立たない
・しかし坐は坐として続いている
| これが「証仏なり、仏を証しもてゆく」。
7) 現代的に読むなら——「自己肯定」の最終否定
現代は、
・自己肯定
・自己実現
・自己理解
が至上命題。
道元は言う。
| 仏道は、
| 自己を肯定することでも、
| 否定することでもない。
| 自己が主語である構造そのものが消える。
それでも、生は止まらない。
むしろ、より正確に動き出す。
8) 最大の落とし穴
この一句の最大の誤読はこれ。
それ自体が、
思っている自己を温存する。
道元の地点では、
| 思う/思わない、
| 分かる/分からない、
| その二項自体が立たない。
ひと言で凝縮すると
諸仏は、仏であると知って仏なのではない。
知る主体が脱落したところで、
なお仏が仏を証しつづけている。
それを、自己だと名づける必要はない。
ここまで来ました。
次に進むなら——
・この一句と「身心脱落」の完全一致
・「無所得」との関係(なぜ“得ない”のに進むのか)
・日常行為で「仏を証しもてゆく」具体相
どこを、さらに深く潜りますか。