自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
——道元(『正法眼蔵』)

この一句は、「身心脱落」を個人の悟り体験に閉じ込めてしまう理解を、完全に破壊します。
要点は一つ。脱落するのは〈私の内面〉ではない。〈関係そのもの〉である。

1) まず決定的な誤解を外す

この文は、次の意味ではありません。

❌ 自分の心身が消える
❌ 他人の存在を否定する
❌ 世界から離脱する悟り体験

道元は、存在論的な消滅を語っていません。
語っているのは、身心が“誰のものか”という構えの崩壊です。

2) 「自己の身心」だけで終わらない理由

もし脱落が「自己の身心」だけなら、

・私は悟った
・私は自由になった

という私中心の完成像が残ります。
道元はそれを許さない。

| 脱落は、必ず“他己の身心”まで及ぶ。

ここで言う「他己」とは、
他人・世界・環境・時間・出来事——私でないすべて。

3) 脱落するのは何か ——「境界」

脱落するのは、

・身体 ❌
・心 ❌
・世界 ❌

ではない。

| 自己と他己を分けて所有する境界線
| ——「私の身心」「あなたの身心」という切り分け。

この境界が落ちると、

・私が感じている
・相手が影響している

という因果主語が立たない。

4) なぜ“させしむる”という能動が使われるのか

原文は受け身ではなく、
「脱落せしむる」という不思議な言い方。

これは、

・私が脱落させる ❌
・脱落が起こる ❌

のどちらでもない。

| 行為が行われているただ中で、
| 身心の所有構造が“保てなくなる”

——その出来事性を表す語法です。

5) 自他脱落=無関係化、ではない

重要な逆説。

・境界が脱落する
 → 他人に無関心になる ❌
 → 責任が消える ❌

真逆です。

| 自他の境界がないからこそ、
| 応答はより直接的で、言い訳ができない。

責任は軽くならない。
逃げ場がなくなる。

6) 修証一等の決定的帰結

この一句は、修証一等の関係論的完成形。

・私が修行して悟る ❌
・私と他者が同時に解放される ⭕

なぜなら、
修行している〈私〉という立場そのものが脱落するから。

7) 坐禅の現場で何が起きているか

坐禅中に、

・私が坐っている
・他人が気になる

という構図が立っている限り、脱落していない。

一方、

・坐が坐として起きている
・音・気配・身体が分けられない

このとき、

| 自己の身心も、他己の身心も、
| “誰のものか分からないまま”働いている。

これが脱落。

8) 現代的に言い換えるなら

この一句は、こう言える。

| 自分を変えようとするな。
| 他人を変えようとするな。
| 「私と他人を分けて管理する構え」そのものが、
| 行為の中で崩れたとき、
| すでに身心は脱落している。

9) 最大の落とし穴

❌ 共感幻想(全部つながっている気分)
❌ 境界喪失による依存
❌ 倫理の放棄

脱落とは、
融合ではなく、所有の放棄。


ひと言で凝縮すると

身心脱落とは、
私の身心が消えることではない。
私と他人の身心を、
それぞれの“持ち物”として扱う構えが、
行為のただ中で成立しなくなること。
そのとき、世界はより直接に、逃げ場なく働き出す。
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
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