四念住 四念処とも称ず
一者、観身不浄
二者、観受是苦
三者、観心無常
四者、観法無我
観身不浄といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する観身不浄なり。不跳ならんは観不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、説取不得ならん、観取不得ならん。すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃牀なり。第幾月を挙して掃地し、正是第二月を挙して掃地掃牀するゆゑに、尽大地の恁麼なり。
観身は身観なり、身観にて余物観にあらず。正当観は卓卓来なり。身観の現成するとき、心観すべて摸未著なり、不現成なり。しかあるゆゑに金剛定なり、首楞厳定なり。ともに観身不浄なり。
おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。たとへば、浣衣の法のごとし。水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる。この水を用著して浣洗し、この水を換却して浣洗すといへども、なほこれ水をもちゐる、なほこれ衣をあらふなり。一番洗、両番洗に見浄ならざれば、休歇に滯累することなかれ。水尽更用水なり。衣浄更浣衣なり。水は諸類の水ともにもちゐる、洗衣によろし。水濁知有魚(水濁りて魚有ることを知る)の道理を参究するなり。衣は諸類の衣ともに浣洗あり。恁麼功夫して、浣衣公案現成なり。しかあれども、浄潔を見取するなり。この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水のころもに染却するを本期とせず。染汚水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり。さらに火風土水空を用著して、衣をあらひ物をあらふ法あり。地水火風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり。
いまの観身不浄の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋観蓋不浄、すなはち孃生袈裟なり。袈裟もし孃生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり、ひとり商那和修のみならんや。この道理よくよくこころをとめて参学究尽すべし。
観受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟瓜を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の神通修証なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜瓜徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦(作麼生ならんか是れ苦)。
観心無常は、曹谿古仏いはく、無常者即仏性也。
しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。
永嘉真覚大師云、諸行無常一切空、即是如来大円覚。
いまの観心無常、すなはち如来大円覚なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他去するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。おほよそ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。
観法無我は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を観法無我と参学するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり。
釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)。
しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに一切諸仏菩薩とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。
四念住 四念処とも称ず
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(3) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 参学の総論を語りましょう。(0) 正法眼蔵 全般を語りましょう。(3) 「空華=幻ではない」という逆転の論理を詳しく分析(1) 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、提示文(道元禅師『正法眼蔵』系統の語法)を前提に、仏道的に深掘りするための視点を、修証一等・只管打坐の立場から整理したものです。
※解説ではなく「参究の視点」として提示します。
Ⅰ.四念住を「修行法」ではなく「仏の現成」として読む
一般仏教学では四念住は
| 煩悩を断ずるための観察技法
として説明されます。しかし本段では、四念住は一貫して 「方法」ではなく「仏道そのもの」 として語られています。
| 観得の現成あり
| 毎日の行履、掃地掃牀なり
深掘り視点
・四念住は「これから修める段階」ではない
・すでに仏行として現れている生活そのもの
・観る主体/観られる対象の分裂がない
四念住=修行以前・悟り以前の“生きている仏の姿”
Ⅱ.観身不浄 ――「不浄=否定」ではない
「不浄」は浄穢の対立ではない
| 浄穢の比論にあらず
| 有身是不浄なり、現身便不浄なり
ここでの「不浄」は、
・汚れているという意味ではない
・身体を対象化できないという意味
尽十方界としての身
| 観身の一袋皮は尽十方界なり
身体とは:
・私の所有物ではない
・世界そのものがこの身として跳躍している
身を“見る”とは、世界が世界を生きていること
跳跳(ちょうちょう)の身体
| 活路に跳跳する観身不浄
・止まった身体は存在しない
・「身があるから観る」のではなく
観る跳躍そのものが身
身=動的真理
Ⅲ.観受是苦 ―― 苦とは「感じている事実そのもの」
苦は感情ではない
| 苦これ受なり
| 自受にあらず他受にあらず
・苦は「嫌な感情」ではない
・生身であることそのもの
甜瓜・苦匏の譬え
| 甜熟瓜を苦葫蘆に換却する
・快楽も苦も、根から違う
・苦は取り除く対象ではない
苦とは、生きているという不可避の深度
神通としての苦
| 徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通
・苦を避けない
・苦に留まらない
・苦を通して自由が現れる
Ⅳ.観心無常 ―― 無常=仏性
無常を否定的に読まない
| 無常者即仏性也
| —— 曹谿古仏(六祖慧能)
ここでの無常は:
・不安定だからダメ、ではない
・固定できないからこそ仏性
心は対象ではない
| 心もしあれば観もあるなり
・心を観察する主体はいない
・心が動く=すでに観
無常=覚知の即時性
瓦礫・牆壁も心
| 牆壁瓦礫、これ心なり
・心=内面ではない
・世界が現れている様相そのもの
Ⅴ.観法無我 ―― 世界の完全な自己否定
無我=否定ではない
| 現成活計なるがゆゑに無我なり
・自我がないから空虚なのではない
・完全に働いているから無我
仏性公案の転倒
| 狗子仏性無なり、狗子仏性有なり
・有無のどちらにも立たない
・問いが成立する地点自体が無我
無我=すべてが成立してしまっている状態
Ⅵ.四念住=聖胎 ―― 仏が生まれ続ける場所
| 四念住を聖胎とせり
深掘り視点
・四念住は修行者のためではない
・仏が仏として生まれ続ける子宮
仏道とは:
| 悟った存在になることではなく、
| 仏が現れ続ける場となること
Ⅶ.総合視点 ―― 四念住は「見る法」ではなく「生き方」
| 通常理解 | 本文の立場 |
| --- | ---- |
| 観察法 | 生の現成 |
| 修行段階 | 仏の胎内 |
| 心理技法 | 宇宙の自己表現 |
| 対象を観る | 世界が跳ねている |
最後に(参究の一句)
| 四念住は修めるものではない
| 四念住として、すでに歩いている
この視点で読むと、
掃地・食事・疲労・迷い・疑い――
すべてが四念住の跳躍として現れてきます。
さらに
・「只管打坐との関係」
・「修証一等との接続」
・「現代的実践への翻訳」
を深掘りしたければ、そこから続けましょう。
※解説ではなく「参究の視点」として提示します。
Ⅰ.四念住を「修行法」ではなく「仏の現成」として読む
一般仏教学では四念住は
| 煩悩を断ずるための観察技法
として説明されます。しかし本段では、四念住は一貫して 「方法」ではなく「仏道そのもの」 として語られています。
| 観得の現成あり
| 毎日の行履、掃地掃牀なり
深掘り視点
・四念住は「これから修める段階」ではない
・すでに仏行として現れている生活そのもの
・観る主体/観られる対象の分裂がない
四念住=修行以前・悟り以前の“生きている仏の姿”
Ⅱ.観身不浄 ――「不浄=否定」ではない
| 浄穢の比論にあらず
| 有身是不浄なり、現身便不浄なり
ここでの「不浄」は、
・汚れているという意味ではない
・身体を対象化できないという意味
| 観身の一袋皮は尽十方界なり
身体とは:
・私の所有物ではない
・世界そのものがこの身として跳躍している
身を“見る”とは、世界が世界を生きていること
| 活路に跳跳する観身不浄
・止まった身体は存在しない
・「身があるから観る」のではなく
観る跳躍そのものが身
身=動的真理
Ⅲ.観受是苦 ―― 苦とは「感じている事実そのもの」
| 苦これ受なり
| 自受にあらず他受にあらず
・苦は「嫌な感情」ではない
・生身であることそのもの
| 甜熟瓜を苦葫蘆に換却する
・快楽も苦も、根から違う
・苦は取り除く対象ではない
苦とは、生きているという不可避の深度
| 徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通
・苦を避けない
・苦に留まらない
・苦を通して自由が現れる
Ⅳ.観心無常 ―― 無常=仏性
| 無常者即仏性也
| —— 曹谿古仏(六祖慧能)
ここでの無常は:
・不安定だからダメ、ではない
・固定できないからこそ仏性
| 心もしあれば観もあるなり
・心を観察する主体はいない
・心が動く=すでに観
無常=覚知の即時性
| 牆壁瓦礫、これ心なり
・心=内面ではない
・世界が現れている様相そのもの
Ⅴ.観法無我 ―― 世界の完全な自己否定
| 現成活計なるがゆゑに無我なり
・自我がないから空虚なのではない
・完全に働いているから無我
| 狗子仏性無なり、狗子仏性有なり
・有無のどちらにも立たない
・問いが成立する地点自体が無我
無我=すべてが成立してしまっている状態
Ⅵ.四念住=聖胎 ―― 仏が生まれ続ける場所
| 四念住を聖胎とせり
深掘り視点
・四念住は修行者のためではない
・仏が仏として生まれ続ける子宮
仏道とは:
| 悟った存在になることではなく、
| 仏が現れ続ける場となること
Ⅶ.総合視点 ―― 四念住は「見る法」ではなく「生き方」
| 通常理解 | 本文の立場 |
| --- | ---- |
| 観察法 | 生の現成 |
| 修行段階 | 仏の胎内 |
| 心理技法 | 宇宙の自己表現 |
| 対象を観る | 世界が跳ねている |
最後に(参究の一句)
| 四念住は修めるものではない
| 四念住として、すでに歩いている
この視点で読むと、
掃地・食事・疲労・迷い・疑い――
すべてが四念住の跳躍として現れてきます。
さらに
・「只管打坐との関係」
・「修証一等との接続」
・「現代的実践への翻訳」
を深掘りしたければ、そこから続けましょう。
四念住 四念処とも称ず
一者、観身不浄
二者、観受是苦
三者、観心無常
四者、観法無我
観身不浄といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する観身不浄なり。不跳ならんは観不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、説取不得ならん、観取不得ならん。すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃牀なり。第幾月を挙して掃地し、正是第二月を挙して掃地掃牀するゆゑに、尽大地の恁麼なり。
観身は身観なり、身観にて余物観にあらず。正当観は卓卓来なり。身観の現成するとき、心観すべて摸未著なり、不現成なり。しかあるゆゑに金剛定なり、首楞厳定なり。ともに観身不浄なり。
おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。たとへば、浣衣の法のごとし。水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる。この水を用著して浣洗し、この水を換却して浣洗すといへども、なほこれ水をもちゐる、なほこれ衣をあらふなり。一番洗、両番洗に見浄ならざれば、休歇に滯累することなかれ。水尽更用水なり。衣浄更浣衣なり。水は諸類の水ともにもちゐる、洗衣によろし。水濁知有魚(水濁りて魚有ることを知る)の道理を参究するなり。衣は諸類の衣ともに浣洗あり。恁麼功夫して、浣衣公案現成なり。しかあれども、浄潔を見取するなり。この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水のころもに染却するを本期とせず。染汚水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり。さらに火風土水空を用著して、衣をあらひ物をあらふ法あり。地水火風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり。
いまの観身不浄の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋観蓋不浄、すなはち孃生袈裟なり。袈裟もし孃生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり、ひとり商那和修のみならんや。この道理よくよくこころをとめて参学究尽すべし。
観受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟瓜を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の神通修証なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜瓜徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦(作麼生ならんか是れ苦)。
観心無常は、曹谿古仏いはく、無常者即仏性也。
しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。
永嘉真覚大師云、諸行無常一切空、即是如来大円覚。
いまの観心無常、すなはち如来大円覚なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他去するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。おほよそ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。
観法無我は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を観法無我と参学するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり。
釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)。
しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに一切諸仏菩薩とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。
一者、観身不浄
二者、観受是苦
三者、観心無常
四者、観法無我
観身不浄といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する観身不浄なり。不跳ならんは観不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、説取不得ならん、観取不得ならん。すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃牀なり。第幾月を挙して掃地し、正是第二月を挙して掃地掃牀するゆゑに、尽大地の恁麼なり。
観身は身観なり、身観にて余物観にあらず。正当観は卓卓来なり。身観の現成するとき、心観すべて摸未著なり、不現成なり。しかあるゆゑに金剛定なり、首楞厳定なり。ともに観身不浄なり。
おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。たとへば、浣衣の法のごとし。水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる。この水を用著して浣洗し、この水を換却して浣洗すといへども、なほこれ水をもちゐる、なほこれ衣をあらふなり。一番洗、両番洗に見浄ならざれば、休歇に滯累することなかれ。水尽更用水なり。衣浄更浣衣なり。水は諸類の水ともにもちゐる、洗衣によろし。水濁知有魚(水濁りて魚有ることを知る)の道理を参究するなり。衣は諸類の衣ともに浣洗あり。恁麼功夫して、浣衣公案現成なり。しかあれども、浄潔を見取するなり。この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水のころもに染却するを本期とせず。染汚水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり。さらに火風土水空を用著して、衣をあらひ物をあらふ法あり。地水火風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり。
いまの観身不浄の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋観蓋不浄、すなはち孃生袈裟なり。袈裟もし孃生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり、ひとり商那和修のみならんや。この道理よくよくこころをとめて参学究尽すべし。
観受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟瓜を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の神通修証なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜瓜徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦(作麼生ならんか是れ苦)。
観心無常は、曹谿古仏いはく、無常者即仏性也。
しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。
永嘉真覚大師云、諸行無常一切空、即是如来大円覚。
いまの観心無常、すなはち如来大円覚なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他去するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。おほよそ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。
観法無我は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を観法無我と参学するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり。
釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)。
しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに一切諸仏菩薩とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。