釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。

釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。
僧業は大乗にあらず、小乗にあらず。僧は仏僧、菩薩僧、声聞僧等あり。いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続せることあらず、仏法の大道を正伝せることあらず。在家わづかに近事男女の学道といへども、達道の先蹤なし。達道のとき、かならず出家するなり。出家に不堪ならんともがら、いかでか仏位を嗣続せん。
しかあるに、二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、在家の学道と出家の学道と、これ一等なりといふ。これただ在家人の屎尿を飮食とせんがために狗子となれる類族なり。あるいは国王大臣にむかひていはく、万機の心はすなはち祖仏心なり、さらに別心あらずといふ。王臣いまだ正説正法をわきまへず、大絓して師号等をたまふ。かくのごとくの道ある諸僧は調達なり。涕唾をくらはんがために、かくのごとくの小兒の狂語あり。啼哭といふべし。七仏の眷属にあらず、魔儻畜生なり。いまだ身心学道をしらず、参学せず、身心出家をしらず。王臣の法政にくらく、仏祖の大道をゆめにもみざるによりてかくのごとし。
維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし。学未到すくなからず。龐蘊居士が祖席に参歴せし、薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばず。ただわづかに参学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり。自余の李附馬、楊文公等、おのおの参飽とおもふといへども、乳餅いまだ喫せず、いはんや画餅を喫せんや。いはんや喫仏祖粥飯せんや、未有鉢盂なり。あはれむべし、一生の皮袋いたづらなることを。
以下は、提示文を 道元禅師の最も峻厳な宗門批判・僧道論として受けとめ、
三十七道品=僧業 という一句を軸に、
仏道的に深掘りするための参究の視点です。
(評価や擁護ではなく、「なぜここまで言わねばならなかったのか」を照らします)

Ⅰ.「三十七品是僧業」とは何を断っているのか

| 三十七品是僧業

ここで言われている「僧業」とは

・僧の職業
・僧の役割分担

では決してありません。
僧業=仏道そのものの担い方三十七道品は、僧として生きる〈全身の働き〉

つまりこれは:
・四念住〜八正道を
 「修行体系」「教理体系」として扱うことの否定
・生き方・身分・身命の全転換としてしか成立しない
 という宣言です。

Ⅱ.大乗でも小乗でもない、という厳密さ

| 僧業は大乗にあらず、小乗にあらず

ここでのポイントは:
・大乗/小乗という教理区分を超えて
・僧という身分的・存在論的転換を問題にしている
三十七道品は
「どの教えを選ぶか」ではなく
「誰として生きるか」の問題。

Ⅲ.「僧」とは誰か —— 立場ではなく身命

| 僧は仏僧、菩薩僧、声聞僧等あり

ここで重要なのは:
・僧は悟りの段階では分けられない
・出家という事実によってのみ成立する
僧とは
仏道を自分の人生に〈職業ではなく運命として〉引き受けた者

Ⅳ.なぜ「出家でなければならない」のか

| 達道のとき、かならず出家するなり

これは在家差別ではなく、
身心論的・制度論的に不可避な結論です。

出家とは何か

・家を捨てることではない
・家族を否定することでもない
身命の帰属先を、世俗から仏法へ完全に移すこと

三十七道品は:
・時間の全体
・身体の全体
・生死の全体

を引き受ける修行であり、
部分的・余暇的・趣味的に実行できるものではない。

Ⅴ.在家平等論への激烈な否定の核心

| 在家の学道と出家の学道と、これ一等なりといふ
| これただ在家人の屎尿を飮食とせんがために狗子となれる類族なり

これは感情的罵倒ではありません。

ここで批判されているのは:
・在家そのものではない
・在家に迎合する僧の堕落
権力・富・名声と引き換えに
僧の身分を売り渡す行為。

Ⅵ.「万機の心即祖仏心」批判の決定点

| 万機の心はすなはち祖仏心なり

これは一見、禅的な名言に聞こえます。
しかし道元は、これを魔語と断じます。

なぜか。



・王臣の「万機の心」は
 権力・統治・計略の心
・それをそのまま「祖仏心」と同一視することは
 仏道を権力の正当化装置にすること
ここで仏道は死ぬ。

Ⅶ.調達(提婆達多)と呼ばれる理由

| かくのごとくの道ある諸僧は調達なり

調達とは:
・仏を殺そうとした者
・教団を分裂させた者
仏法を内部から破壊する者

道元にとって:
・外からの弾圧より
・内部の迎合の方が、はるかに危険。

Ⅷ.維摩・龐蘊評価の微妙さ

ここは誤読されやすい重要点です。

維摩居士

| 仏出世時にあふし、道未尽の法おほし

・高く評価している
・しかし 「未尽」 と言い切る

龐蘊居士

| 参学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり

・禅史的英雄像を解体
・出家者の堂奥を許されなかった事実を重視
在家の覚者を否定しているのではない僧の正伝を継ぐ資格とは別だと言っている

Ⅸ.鉢盂の比喩 —— 決定的な一線

| 未有鉢盂なり

鉢盂とは:
・僧の命そのもの
・托鉢=生死の依り所



・画餅(理論)
・乳餅(部分理解)
・仏祖粥飯(正伝)

これを食べるには
鉢盂=僧の身分が必要。

Ⅹ.三十七道品=僧業の最終的意味

ここまでの全批判を貫く核心は一つです。
三十七道品は、
理解されるための教えではない
生き切られるための道である
そしてそれを
一生かけて引き受ける形が「僧」

Ⅺ.参究の一句(結語)

| 三十七道品は修行項目にあらず
| 僧の一生なり
| 僧の一生は職にあらず
| 身命の引き渡しなり


補足として大切な一点

これは

・在家を軽んじる教えではありません
・出家を神聖化する教えでもありません
僧とは、
仏道に対して言い逃れの道を断った存在

その厳しさを、
道元は一切の妥協なく言い切ったのです。


もし次に進むなら:
・なぜ道元はここまで過激でなければならなかったのか
・現代において「僧業」はどう成立しうるか
・在家は三十七道品とどう関わるのか(道元的限界と可能性)

これらは、さらに深く掘るべき核心テーマです。
釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。
僧業は大乗にあらず、小乗にあらず。僧は仏僧、菩薩僧、声聞僧等あり。いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続せることあらず、仏法の大道を正伝せることあらず。在家わづかに近事男女の学道といへども、達道の先蹤なし。達道のとき、かならず出家するなり。出家に不堪ならんともがら、いかでか仏位を嗣続せん。
しかあるに、二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、在家の学道と出家の学道と、これ一等なりといふ。これただ在家人の屎尿を飮食とせんがために狗子となれる類族なり。あるいは国王大臣にむかひていはく、万機の心はすなはち祖仏心なり、さらに別心あらずといふ。王臣いまだ正説正法をわきまへず、大絓して師号等をたまふ。かくのごとくの道ある諸僧は調達なり。涕唾をくらはんがために、かくのごとくの小兒の狂語あり。啼哭といふべし。七仏の眷属にあらず、魔儻畜生なり。いまだ身心学道をしらず、参学せず、身心出家をしらず。王臣の法政にくらく、仏祖の大道をゆめにもみざるによりてかくのごとし。
維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし。学未到すくなからず。龐蘊居士が祖席に参歴せし、薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばず。ただわづかに参学の名をぬすめりといへども、参学の実あらざるなり。自余の李附馬、楊文公等、おのおの参飽とおもふといへども、乳餅いまだ喫せず、いはんや画餅を喫せんや。いはんや喫仏祖粥飯せんや、未有鉢盂なり。あはれむべし、一生の皮袋いたづらなることを。
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