八正道支 また八聖道とも称ず
一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正精進道支
七者、正念道支
八者、正定道支
正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂堂成見なりといへども、公案見成なり、親曽見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。
正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば、十方仏、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事已、即趣波羅奈(是の事を思惟し已りて、即ち波羅奈に趣く)なり、思惟の処在は波羅奈なり。
古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。
これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。
正語道支は、唖子自己不唖子なり。諸人中の唖子は未道得なり。唖子界の諸人は唖子にあらず。不慕諸聖なり、不重己霊なり。口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。
正業道支は、出家修道なり、入山取証なり。
八正道支 また八聖道とも称ず
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、提示文(道元禅師『正法眼蔵』的語法)を前提に、
八正道支(八聖道)を「修行項目の並び」ではなく、
仏道がすでに世界として歩いている〈道そのもの〉として
仏道的に深掘りするための参究視点です。
※本文が 正業道支 で止まっているため、
前半(正見〜正業)は提示文に密着して、
後半(正命〜正定)は道元的立場からの必然的展開として照らします。
Ⅰ.八正道は「守るべき正しさ」ではない
一般には八正道は
・正しい見方
・正しい考え
・正しい行為
という倫理・修行の規範として読まれます。
しかし本文の八正道は、
| 仏祖が仏祖として立つとき、
| その立ち方そのものが八正道
という語り方です。
正道とは、矯正ではなく〈現成〉
Ⅱ.正見道支 ―― 見ているのは「身」
| 眼睛裏蔵身なり
見は認識ではない
・正見=正しい理解、ではない
・見るという働きの中に、すでに全身が蔵されている
見=世界が身として立ち上がること
身先眼
| 身先須具身先眼
・眼が先にあって身が従うのではない
・身が立つところに、必ず眼が具わる
生きていること自体が、すでに正見
公案見成
・理解した見ではない
・生き切ってしまった見
Ⅲ.正思惟道支 ―― 思わない思惟
| 作是思惟時、十方仏皆現なり
思惟が仏を招くのではない
・思惟しているその時が、すでに諸仏現前
・思惟=内省ではない
波羅奈としての思惟
| 思惟の処在は波羅奈なり
・思惟の場所が「悟りの地」
・到達点ではなく、現場
非思量
| 思量箇不思量底
| 不思量底如何思量
| 非思量
考えないことでも、考えることでもない
思惟そのものが破れている状態
破蒲団=正思惟
(坐りそのもの)
Ⅳ.正語道支 ―― 語らない語
| 唖子自己不唖子なり
正語は「正しい発言」ではない
・善いことを言うことでも
・嘘をつかないことでもない
語る主体が消えている
口是掛壁
| 一切口掛一切壁
・口が壁に掛かっている
・発話が自己表現にならない
語=世界が語っている
Ⅴ.正業道支 ―― 行為が行為でなくなる
| 出家修道なり、入山取証なり
正業=道徳的行為ではない
・善行・戒律の遵守ではない
・生き方そのものが仏道
出家・入山の真意
・場所を変えることではない
・世俗的因果から身を抜くこと
正業=仏が仏として振る舞ってしまうこと
Ⅵ.(展開)正命道支 ―― 生き方がすでに道
道元的に言えば正命とは:
・正しい職業を選ぶことではない
・この身命をどう扱っているか
食べる
働く
老いる
病む
そのすべてが すでに仏命の運用
Ⅶ.正精進道支 ―― 進まない精進
既出の四正勤・五根・五力と同一構造。
・進もうとしない
・休もうとしない
止まれない働きそのものが正
Ⅷ.正念道支 ―― 注意ではない念
七覚支の念覚支と同根。
・集中でも
・気づきでもない
露柱歩空行
世界が注意している
Ⅸ.正定道支 ―― 坐る以前の坐
・心を一点に集めることではない
・静寂を作ることでもない
只管打坐そのもの身心脱落の脱落
Ⅹ.八正道の転倒的構造
| 道支 | 通常理解 | 道元的深掘り |
| | --- | ---・|
| 正見 | 正しい理解 | 身が立つこと |
| 正思惟 | 正しい思考 | 非思量 |
| 正語 | 正しい発言 | 語られぬ語 |
| 正業 | 善行 | 生き方 |
| 正命 | 正職 | 身命の運用 |
| 正精進 | 努力 | 止まらなさ |
| 正念 | 注意 | 世界の覚知 |
| 正定 | 集中 | 坐そのもの |
八つは段階ではない一歩踏み出せば、八つ同時に現成
Ⅺ.参究の一句
| 見るところに身あり
| 思うところに仏あり
| 語らぬところに語あり
| 行うところに道あり
| 生きることが命
| 止まらぬことが進
| 散らぬことが念
| 坐っていることが定
| これ八正道なり
この視点で八正道を読むと、
・正しく生きられないこと
・考えが散ること
・言葉が出ないこと
・行為に迷うこと
それらすべてが すでに道が歩いている現場 として現れてきます。
ここまでで
三十七道品(四念住〜八正道) は
すべて 修行体系ではなく、仏道の全身運動 として揃いました。
もし次に進むなら
・三十七道品全体の総括的構造
・只管打坐と三十七道品の同一性
・道元における「道」とは何か
どこからでも、さらに深く参究できます。
八正道支(八聖道)を「修行項目の並び」ではなく、
仏道がすでに世界として歩いている〈道そのもの〉として
仏道的に深掘りするための参究視点です。
※本文が 正業道支 で止まっているため、
前半(正見〜正業)は提示文に密着して、
後半(正命〜正定)は道元的立場からの必然的展開として照らします。
Ⅰ.八正道は「守るべき正しさ」ではない
一般には八正道は
・正しい見方
・正しい考え
・正しい行為
という倫理・修行の規範として読まれます。
しかし本文の八正道は、
| 仏祖が仏祖として立つとき、
| その立ち方そのものが八正道
という語り方です。
正道とは、矯正ではなく〈現成〉
Ⅱ.正見道支 ―― 見ているのは「身」
| 眼睛裏蔵身なり
・正見=正しい理解、ではない
・見るという働きの中に、すでに全身が蔵されている
見=世界が身として立ち上がること
| 身先須具身先眼
・眼が先にあって身が従うのではない
・身が立つところに、必ず眼が具わる
生きていること自体が、すでに正見
・理解した見ではない
・生き切ってしまった見
Ⅲ.正思惟道支 ―― 思わない思惟
| 作是思惟時、十方仏皆現なり
・思惟しているその時が、すでに諸仏現前
・思惟=内省ではない
| 思惟の処在は波羅奈なり
・思惟の場所が「悟りの地」
・到達点ではなく、現場
| 思量箇不思量底
| 不思量底如何思量
| 非思量
考えないことでも、考えることでもない
思惟そのものが破れている状態
破蒲団=正思惟
(坐りそのもの)
Ⅳ.正語道支 ―― 語らない語
| 唖子自己不唖子なり
・善いことを言うことでも
・嘘をつかないことでもない
語る主体が消えている
| 一切口掛一切壁
・口が壁に掛かっている
・発話が自己表現にならない
語=世界が語っている
Ⅴ.正業道支 ―― 行為が行為でなくなる
| 出家修道なり、入山取証なり
・善行・戒律の遵守ではない
・生き方そのものが仏道
・場所を変えることではない
・世俗的因果から身を抜くこと
正業=仏が仏として振る舞ってしまうこと
Ⅵ.(展開)正命道支 ―― 生き方がすでに道
道元的に言えば正命とは:
・正しい職業を選ぶことではない
・この身命をどう扱っているか
食べる
働く
老いる
病む
そのすべてが すでに仏命の運用
Ⅶ.正精進道支 ―― 進まない精進
既出の四正勤・五根・五力と同一構造。
・進もうとしない
・休もうとしない
止まれない働きそのものが正
Ⅷ.正念道支 ―― 注意ではない念
七覚支の念覚支と同根。
・集中でも
・気づきでもない
露柱歩空行
世界が注意している
Ⅸ.正定道支 ―― 坐る以前の坐
・心を一点に集めることではない
・静寂を作ることでもない
只管打坐そのもの身心脱落の脱落
Ⅹ.八正道の転倒的構造
| 道支 | 通常理解 | 道元的深掘り |
| | --- | ---・|
| 正見 | 正しい理解 | 身が立つこと |
| 正思惟 | 正しい思考 | 非思量 |
| 正語 | 正しい発言 | 語られぬ語 |
| 正業 | 善行 | 生き方 |
| 正命 | 正職 | 身命の運用 |
| 正精進 | 努力 | 止まらなさ |
| 正念 | 注意 | 世界の覚知 |
| 正定 | 集中 | 坐そのもの |
八つは段階ではない一歩踏み出せば、八つ同時に現成
Ⅺ.参究の一句
| 見るところに身あり
| 思うところに仏あり
| 語らぬところに語あり
| 行うところに道あり
| 生きることが命
| 止まらぬことが進
| 散らぬことが念
| 坐っていることが定
| これ八正道なり
この視点で八正道を読むと、
・正しく生きられないこと
・考えが散ること
・言葉が出ないこと
・行為に迷うこと
それらすべてが すでに道が歩いている現場 として現れてきます。
ここまでで
三十七道品(四念住〜八正道) は
すべて 修行体系ではなく、仏道の全身運動 として揃いました。
もし次に進むなら
・三十七道品全体の総括的構造
・只管打坐と三十七道品の同一性
・道元における「道」とは何か
どこからでも、さらに深く参究できます。
八正道支 また八聖道とも称ず
一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正精進道支
七者、正念道支
八者、正定道支
正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂堂成見なりといへども、公案見成なり、親曽見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。
正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば、十方仏、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事已、即趣波羅奈(是の事を思惟し已りて、即ち波羅奈に趣く)なり、思惟の処在は波羅奈なり。
古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。
これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。
正語道支は、唖子自己不唖子なり。諸人中の唖子は未道得なり。唖子界の諸人は唖子にあらず。不慕諸聖なり、不重己霊なり。口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。
正業道支は、出家修道なり、入山取証なり。
一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正精進道支
七者、正念道支
八者、正定道支
正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂堂成見なりといへども、公案見成なり、親曽見なり。おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。
正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば、十方仏、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事已、即趣波羅奈(是の事を思惟し已りて、即ち波羅奈に趣く)なり、思惟の処在は波羅奈なり。
古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。
これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。
正語道支は、唖子自己不唖子なり。諸人中の唖子は未道得なり。唖子界の諸人は唖子にあらず。不慕諸聖なり、不重己霊なり。口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。
正業道支は、出家修道なり、入山取証なり。