かくのごとくなるによりて、
かくのごとくなるによりて、曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり。金剛経をききて発心せざりしときは樵夫として家にあり、金剛経をききて仏法の蝉力あるときは重擔を放下して出家す。しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまることあたはずといふことを。諸仏祖みなかくのごとし。出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪條なり、調達よりも猛悪なりといふべし。六群比丘、六群尼、十八群比丘等よりもおもしとしりて、共語すべからず。一生の寿命いくばくならず、かくのごとくの魔子畜生等と共語すべき光陰なし。いはんやこの人身心は、先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。公界の調度なるがごとし。魔族となすべきにあらず、魔族とともならしむべきにあらず。仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。悪狗と同坐同食することなかれ。
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、この一段を 道元禅師の出家至上主義の断言として短絡的に読むのではなく、
「正業とは何か」「仏法が身心に宿ったとき、何が不可避になるのか」
という一点に照準を合わせて、仏道的に深掘りするための視点です。
これは前段の激烈な批判をさらに推し進めた、最終的な実例提示です。
Ⅰ.曹谿古仏(六祖慧能)を引く意味
| 曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり
ここで六祖慧能が持ち出されるのは偶然ではありません。
・六祖は
在家 → 出家 → 祖師
という転換を、最も劇的に示した存在
・「頓悟」の象徴でありながら、
悟ったまま在家に留まらなかった人物
道元はここで、
「悟りが本物であれば、必ず生活が変わる」
という一点を、六祖で証明しています。
Ⅱ.金剛経を聞く前後の断絶
| 金剛経をききて発心せざりしときは樵夫として家にあり
| 金剛経をききて仏法の蝉力あるときは重擔を放下して出家す
ここで決定的なのは:
・経を聞いたことではない
・理解したことでもない
仏法の力が「身心に入ったかどうか」
「蝉力」とは:
・知識
・感動
・信仰心
ではなく、
生活を支えていた重荷を下ろさせる不可抗力
仏法が本当に入ると、
“このままではいられない” という事実が起きる
Ⅲ.「在家にとどまることあたはず」という必然
| 身心もし仏法あるときは、在家にとどまることあたはず
これは規範ではありません。
心理的・存在論的な必然です。
・在家が悪いから出家するのではない
・出家が偉いから選ぶのでもない
仏法が身心を貫いた結果、
在家という形式が保持できなくなる
つまり:
・時間の使い方
・人間関係
・責任の配分
・生死の引き受け方
すべてが噛み合わなくなる。
Ⅳ.「出家すべからず」という言説への最大断罪
| 出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪條
これは道元の中でも最も過激な表現です。
なぜここまで言うのか
・出家を否定するということは
・仏法の身体的継承を断つということ
それは
仏を殺すよりも重い罪
(=未来の仏を生まれなくする)
調達(提婆達多)以上とされる理由はここにある。
Ⅴ.「共語すべからず」という断絶の論理
| 共語すべからず
| 共坐すべからず
これは排他的戒律ではありません。
伝承防衛のための隔離
・言葉は伝染する
・緩和論は必ず僧の身心を腐らせる
だから:
・対話しない
・妥協しない
これは冷酷さではなく、
仏法を未来へ残すための最低限の操作。
Ⅵ.人身は「公界の調度」である
| この人身心は、先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり
| 公界の調度なるがごとし
ここは非常に重要で、優しい一節です。
人身は:
・私物ではない
・自由に使ってよい所有物ではない
仏法に属する公共財
だから:
・魔族にするな
・魔族と同化するな
という警告になる。
Ⅶ.「悪狗」の比喩の最深層
| 悪狗の叫吠をきくことなかれ
ここでの「悪狗」とは:
・在家の人ではない
・出家を否定しながら仏法を語る者
仏法を吠え声に堕とす存在。
・理屈
・平等論
・世俗迎合
これらはすべて
仏道を遠ざけるノイズとして扱われる。
Ⅷ.この一段の核心構造
この文章は、実は三段構えです。
1. 事例
六祖慧能は悟って出家した
2. 必然
仏法が身心にあれば在家に留まれない
3. 防衛
それを否定する言説を断て
すべては
三十七道品=僧業
を未来へつなぐため。
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 仏法は
| 聞いて理解するものではない
| 身心に入って
| 生活を破壊するものである
| 破壊されぬ仏法は
| 仏法ではない
最後に(きわめて重要)
これは
・現代人に出家を強要する文章ではありません
・在家修行を無意味とする断罪でもありません
問われているのは一つだけ
| あなたの人生は、
| 仏法によって
| どこまで壊されているか
そこが一寸も壊れていないなら、
この文章は「過激」に見える。
しかしもし、
何かがすでに崩れ始めているなら――
この文章は、
あなたの内部から聞こえてくる声です。
ここまで読み抜いたあなたは、
すでに「外から評価する立場」ではありません。
仏道に身心を問われている地点に立っています。
「正業とは何か」「仏法が身心に宿ったとき、何が不可避になるのか」
という一点に照準を合わせて、仏道的に深掘りするための視点です。
これは前段の激烈な批判をさらに推し進めた、最終的な実例提示です。
Ⅰ.曹谿古仏(六祖慧能)を引く意味
| 曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり
ここで六祖慧能が持ち出されるのは偶然ではありません。
・六祖は
在家 → 出家 → 祖師
という転換を、最も劇的に示した存在
・「頓悟」の象徴でありながら、
悟ったまま在家に留まらなかった人物
道元はここで、
「悟りが本物であれば、必ず生活が変わる」
という一点を、六祖で証明しています。
Ⅱ.金剛経を聞く前後の断絶
| 金剛経をききて発心せざりしときは樵夫として家にあり
| 金剛経をききて仏法の蝉力あるときは重擔を放下して出家す
ここで決定的なのは:
・経を聞いたことではない
・理解したことでもない
仏法の力が「身心に入ったかどうか」
「蝉力」とは:
・知識
・感動
・信仰心
ではなく、
生活を支えていた重荷を下ろさせる不可抗力
仏法が本当に入ると、
“このままではいられない” という事実が起きる
Ⅲ.「在家にとどまることあたはず」という必然
| 身心もし仏法あるときは、在家にとどまることあたはず
これは規範ではありません。
心理的・存在論的な必然です。
・在家が悪いから出家するのではない
・出家が偉いから選ぶのでもない
仏法が身心を貫いた結果、
在家という形式が保持できなくなる
つまり:
・時間の使い方
・人間関係
・責任の配分
・生死の引き受け方
すべてが噛み合わなくなる。
Ⅳ.「出家すべからず」という言説への最大断罪
| 出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪條
これは道元の中でも最も過激な表現です。
なぜここまで言うのか
・出家を否定するということは
・仏法の身体的継承を断つということ
それは
仏を殺すよりも重い罪
(=未来の仏を生まれなくする)
調達(提婆達多)以上とされる理由はここにある。
Ⅴ.「共語すべからず」という断絶の論理
| 共語すべからず
| 共坐すべからず
これは排他的戒律ではありません。
伝承防衛のための隔離
・言葉は伝染する
・緩和論は必ず僧の身心を腐らせる
だから:
・対話しない
・妥協しない
これは冷酷さではなく、
仏法を未来へ残すための最低限の操作。
Ⅵ.人身は「公界の調度」である
| この人身心は、先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり
| 公界の調度なるがごとし
ここは非常に重要で、優しい一節です。
人身は:
・私物ではない
・自由に使ってよい所有物ではない
仏法に属する公共財
だから:
・魔族にするな
・魔族と同化するな
という警告になる。
Ⅶ.「悪狗」の比喩の最深層
| 悪狗の叫吠をきくことなかれ
ここでの「悪狗」とは:
・在家の人ではない
・出家を否定しながら仏法を語る者
仏法を吠え声に堕とす存在。
・理屈
・平等論
・世俗迎合
これらはすべて
仏道を遠ざけるノイズとして扱われる。
Ⅷ.この一段の核心構造
この文章は、実は三段構えです。
1. 事例
六祖慧能は悟って出家した
2. 必然
仏法が身心にあれば在家に留まれない
3. 防衛
それを否定する言説を断て
すべては
三十七道品=僧業
を未来へつなぐため。
Ⅸ.参究の一句(結語)
| 仏法は
| 聞いて理解するものではない
| 身心に入って
| 生活を破壊するものである
| 破壊されぬ仏法は
| 仏法ではない
最後に(きわめて重要)
これは
・現代人に出家を強要する文章ではありません
・在家修行を無意味とする断罪でもありません
問われているのは一つだけ
| あなたの人生は、
| 仏法によって
| どこまで壊されているか
そこが一寸も壊れていないなら、
この文章は「過激」に見える。
しかしもし、
何かがすでに崩れ始めているなら――
この文章は、
あなたの内部から聞こえてくる声です。
ここまで読み抜いたあなたは、
すでに「外から評価する立場」ではありません。
仏道に身心を問われている地点に立っています。
かくのごとくなるによりて、曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり。金剛経をききて発心せざりしときは樵夫として家にあり、金剛経をききて仏法の蝉力あるときは重擔を放下して出家す。しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとどまることあたはずといふことを。諸仏祖みなかくのごとし。出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪條なり、調達よりも猛悪なりといふべし。六群比丘、六群尼、十八群比丘等よりもおもしとしりて、共語すべからず。一生の寿命いくばくならず、かくのごとくの魔子畜生等と共語すべき光陰なし。いはんやこの人身心は、先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。公界の調度なるがごとし。魔族となすべきにあらず、魔族とともならしむべきにあらず。仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。悪狗と同坐同食することなかれ。