現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。
現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。両三箇あるにあらず。維摩は是にして一黙あり、いまは一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし。あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかつて仏法見聞の参学なしといふべし。大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ。その道理、あきらめやすかるべし。
■60.三十七品菩提分法:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
★注目スレッド: 四念住 四念処とも称ず(1) 四正断 あるいは四正勤と称ず(0) 四神足(1) 五根(1) 五力(1) 七等覚支(1) 八正道支 また八聖道とも称ず(1) 釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。(1) 普勧すらくは尽十方の天衆生、(1) かくのごとくなるによりて、(1) 嵩山高祖古仏、(1) 釈迦牟尼仏言、(1) おほよそ仏法東漸よりこのかた、(1) おほよそ梵王、釈王、人王、龍王、鬼神王等、(1) あるいは又あまりさへは、維摩と釈尊と、(1)
以下は、この一段を
「宋代禅の衰退嘆き」や「沈黙至上主義への皮肉」として読むのを超えて、
仏法が“死ぬ”ときに必ず起こる二つの誤作動を見抜くための、
仏道的に深掘りする視点です。
ここは道元の議論の終着点であり、
同時に最も現代的な警告でもあります。
Ⅰ.「断絶せるがごとし」とは、人数の問題ではない
| 仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし
| 両三箇あるにあらず
これは
・僧が少ない
・優れた師がいない
という意味ではありません。
仏道を“生き方として”引き受けている者が、
ほとんどいないという診断です。
・語れる者は多い
・評論できる者も多い
・しかし 身心が賭けられていない
だから「断絶」。
Ⅱ.第一の死に方:沈黙の序列化
| 維摩は是にして一黙あり
| いまは一黙せざるは維摩よりも劣なり
これは何が起きているのか
・維摩の沈黙を「偉業」として固定する
・沈黙しない者を「劣る」と裁く
沈黙が価値指標になる
この瞬間、
・仏道は修行ではなく
・品評会になる。
道元が言う「活路なし」とは、
法が動かなくなるという意味。
Ⅲ.第二の死に方:沈黙の同一化
| 維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なり
これは一見、深い理解に見えます。
しかし道元は、
これをさらに重い誤りと見ています。
なぜか
働きの異なる沈黙を、
“同じ”という言葉で殺してしまうから
・仏の沈黙
・菩薩の沈黙
・凡夫の沈黙
それぞれ、
・生死の引き受け方が違う
・法位が違う
・世界への作用が違う
それを「同じ」と言った瞬間、
すべてが無効化される。
Ⅳ.「分別の光明」とは、区別する智慧
| さらに分別の光明あらざるなり
ここでいう分別は、
・理屈
・分析
・判断
ではありません。
見分ける眼
・同じ沈黙に見えても
・同じ言葉に聞こえても
仏法か、仏法のふりか
を見抜く力。
これがなければ、
・沈黙は芸
・禅は雰囲気
・法は装飾
になる。
Ⅴ.「仏法見聞の参学なし」とは何を指すか
| すべていまだかつて仏法見聞の参学なし
これは知識不足を言っているのではありません。
仏法に“壊された経験”がない
という意味です。
・生活が壊れたか
・価値観が壊れたか
・安全地帯が壊れたか
それが一度も起きていない者は、
・禅語を語れても
・沈黙に感動しても
仏法を見聞したとは言えない。
Ⅵ.「宋代だから仏法」という幻想の破壊
| 大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ
これは時代批判ではありません。
権威への依存の破壊です。
・有名な国
・名高い宗派
・長い伝統
それらは一切、
仏法の保証にならない。
仏法の保証はただ一つ。
いま、この身心が
法として生きているか
Ⅶ.この一段の構造を一言で言えば
道元がここで示しているのは、
仏法が死ぬ二つの典型パターンです。
1. 沈黙を神格化する
2. 沈黙を一般化する
どちらも、
・生きた法を止め
・比較と概念に閉じ込める。
Ⅷ.参究の一句(結語)
| 沈黙があるから仏法ではない
| 語りがあるから仏法でもない
| 沈黙と語りが
| 価値になった瞬間
| 仏法は、すでに死んでいる
最後に(もっとも重要な一点)
この文章は、
宋代の誰かを裁くためのものではありません。
常に、いまここに向けられている
・「黙っていれば深い」
・「語らなければ本物」
・「同じと言えれば分かった」
その安易さに、
仏法は必ず殺される。
だから道元は、
容赦なく言い切る。
| その道理、あきらめやすかるべし。
――分かるはずだ、
本当に参学していれば。
ここで問われているのは、
他人の沈黙ではありません。
| あなたの沈黙は、
| 法を生かしているか、
| それとも止めているか。
この問いに耐え続けること。
それ自体が、
仏祖の大道を参学する唯一の道です。
「宋代禅の衰退嘆き」や「沈黙至上主義への皮肉」として読むのを超えて、
仏法が“死ぬ”ときに必ず起こる二つの誤作動を見抜くための、
仏道的に深掘りする視点です。
ここは道元の議論の終着点であり、
同時に最も現代的な警告でもあります。
Ⅰ.「断絶せるがごとし」とは、人数の問題ではない
| 仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし
| 両三箇あるにあらず
これは
・僧が少ない
・優れた師がいない
という意味ではありません。
仏道を“生き方として”引き受けている者が、
ほとんどいないという診断です。
・語れる者は多い
・評論できる者も多い
・しかし 身心が賭けられていない
だから「断絶」。
Ⅱ.第一の死に方:沈黙の序列化
| 維摩は是にして一黙あり
| いまは一黙せざるは維摩よりも劣なり
これは何が起きているのか
・維摩の沈黙を「偉業」として固定する
・沈黙しない者を「劣る」と裁く
沈黙が価値指標になる
この瞬間、
・仏道は修行ではなく
・品評会になる。
道元が言う「活路なし」とは、
法が動かなくなるという意味。
Ⅲ.第二の死に方:沈黙の同一化
| 維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なり
これは一見、深い理解に見えます。
しかし道元は、
これをさらに重い誤りと見ています。
なぜか
働きの異なる沈黙を、
“同じ”という言葉で殺してしまうから
・仏の沈黙
・菩薩の沈黙
・凡夫の沈黙
それぞれ、
・生死の引き受け方が違う
・法位が違う
・世界への作用が違う
それを「同じ」と言った瞬間、
すべてが無効化される。
Ⅳ.「分別の光明」とは、区別する智慧
| さらに分別の光明あらざるなり
ここでいう分別は、
・理屈
・分析
・判断
ではありません。
見分ける眼
・同じ沈黙に見えても
・同じ言葉に聞こえても
仏法か、仏法のふりか
を見抜く力。
これがなければ、
・沈黙は芸
・禅は雰囲気
・法は装飾
になる。
Ⅴ.「仏法見聞の参学なし」とは何を指すか
| すべていまだかつて仏法見聞の参学なし
これは知識不足を言っているのではありません。
仏法に“壊された経験”がない
という意味です。
・生活が壊れたか
・価値観が壊れたか
・安全地帯が壊れたか
それが一度も起きていない者は、
・禅語を語れても
・沈黙に感動しても
仏法を見聞したとは言えない。
Ⅵ.「宋代だから仏法」という幻想の破壊
| 大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ
これは時代批判ではありません。
権威への依存の破壊です。
・有名な国
・名高い宗派
・長い伝統
それらは一切、
仏法の保証にならない。
仏法の保証はただ一つ。
いま、この身心が
法として生きているか
Ⅶ.この一段の構造を一言で言えば
道元がここで示しているのは、
仏法が死ぬ二つの典型パターンです。
1. 沈黙を神格化する
2. 沈黙を一般化する
どちらも、
・生きた法を止め
・比較と概念に閉じ込める。
Ⅷ.参究の一句(結語)
| 沈黙があるから仏法ではない
| 語りがあるから仏法でもない
| 沈黙と語りが
| 価値になった瞬間
| 仏法は、すでに死んでいる
最後に(もっとも重要な一点)
この文章は、
宋代の誰かを裁くためのものではありません。
常に、いまここに向けられている
・「黙っていれば深い」
・「語らなければ本物」
・「同じと言えれば分かった」
その安易さに、
仏法は必ず殺される。
だから道元は、
容赦なく言い切る。
| その道理、あきらめやすかるべし。
――分かるはずだ、
本当に参学していれば。
ここで問われているのは、
他人の沈黙ではありません。
| あなたの沈黙は、
| 法を生かしているか、
| それとも止めているか。
この問いに耐え続けること。
それ自体が、
仏祖の大道を参学する唯一の道です。
現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。両三箇あるにあらず。維摩は是にして一黙あり、いまは一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし。あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかつて仏法見聞の参学なしといふべし。大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ。その道理、あきらめやすかるべし。