まず自分が安心できる状態になるべき、批判してv

とても大切な視点です。
結論から言います。

| 「まず自分が安心できる状態になるべきだ」という主張は、
| 心理・福祉・セルフケアとしては正しい。
| しかし仏道の立場から見ると、
| その前提そのものが〈救い〉を不可能にする構造を含んでいる。

以下、感情論でも道徳論でもなく、仏道的に批判します。

① まず、この主張がどこで成立しているか

「まず自分が安心できる状態になるべきだ」は、

・心理学
・トラウマケア
・共感疲労対策
・現代的セルフケア

の文脈では、完全に正論です。

仏道はこれを否定しません。
むしろ、混同することを問題にします。

② 仏道が問題にするのは「安心という位置」

仏道的に見ると、この主張には次の前提があります。

1. 不安な私
2. 安心した私(到達点)
3. 安心した私が、他者を救う

ここで仏道は問いを入れます。

| その「安心した私」は、どこから成立したのか?

③ 「まず自分が安心する」は、自己を固定する

仏道の批判点はここです。

「まず自分が安心する」と言った瞬間、

・安心していない私(欠けた自己)
・安心すべき私(完成形)

という 二つの自己 が立ちます。

この構造は、

・修行が進めば完成する私
・救われた主体としての私

を前提にします。
これが、仏道では迷いの基本構造。

④ なぜそれが「救い」を不可能にするのか

仏道における救い(済度)は、

・操作
・計画
・到達

ではありません。

「安心してから救う」という順序は、

・救う主体が成立してから
・救いを実行する

というモデル。

しかし仏道では、

| 救いを実行する主体は存在しない

主体を立てた瞬間、

・救われる相手
・救う私

が分断され、
すでに仏道から外れる。

⑤ 「じゃあ不安なまま救えというのか?」への答え

ここが一番の誤解点です。

仏道は、

・不安なまま耐えろ
・自己犠牲しろ

とは 一切言っていない。

仏道が言うのは、

| 不安/安心という評価軸で
| 行為を条件づけるな

ということ。

⑥ 仏道における「安心」とは何か

仏道の安心(あんじん)は、

・安全
・快
・心理的安定

ではありません。
自己を守ろうとする回路が止んでいる状態

・安心していると確認する私がいない
・不安を排除しようとする私もいない

だから、

・不安があっても行為は妨げられない
・安心を条件にしないから、動ける

⑦ なぜ「相手を先に救え」と言われるのか(再定義)

仏道的に正確に言うと、

| 相手を先に救え
| は
| 自己を起点にするな

という意味です。

相手に向いた瞬間、

・私は安心しているか?
・私は準備できているか?

という問いが立たない。
自己確認が起きない

⑧ 「まず自分を安心させる」ことの最大の問題点

仏道的に見て、最大の問題はこれです。

| 安心が“条件”になること

・安心できたら動く
・救える状態になったら関わる

この構造は、

・条件が満たされない限り
・永遠に動かない

という構造を持つ。

仏道ではこれを、

| 生死の中に逃げ道を作る

と言います。

⑨ 仏道からの最も厳しい一言

仏道的に、あえて厳しく言えばこうです。

| 「まず自分が安心してから」という思想は、
| 自己を救いの外に固定する。

・安心できない自分
・まだ救えない自分

という自己像を、
永久に温存してしまう。

⑩ では仏道は何を肯定するのか

仏道が肯定するのは、これです。

・不安があっても
・迷いがあっても
・未完成でも
起きていることに応じて、体が動いてしまうこと

それは、

・善行でも
・救済でも
・修行でもなく

ただの現成。

最後に一行でまとめる

| 仏道は、
| 「安心してから救え」とは言わない。
| 「安心を条件にする自己を、成立させるな」と言う。

これは冷たい教えではありません。
むしろ、

| 一生、安心できなくても、
| それでも仏道は今ここで成り立つ

という、
非常に厳しく、非常に解放的な教えです。

必要なら次は、

・自己犠牲との決定的違い
・共感疲労と仏道の関係
・「安心できない人ほど仏道に近い」理由

も、さらに掘れます。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
とても大切な視点です。
結論から言います。

| 「まず自分が安心できる状態になるべきだ」という主張は、
| 心理・福祉・セルフケアとしては正しい。
| しかし仏道の立場から見ると、
| その前提そのものが〈救い〉を不可能にする構造を含んでいる。

以下、感情論でも道徳論でもなく、仏道的に批判します。

① まず、この主張がどこで成立しているか

「まず自分が安心できる状態になるべきだ」は、

・心理学
・トラウマケア
・共感疲労対策
・現代的セルフケア

の文脈では、完全に正論です。

仏道はこれを否定しません。
むしろ、混同することを問題にします。

② 仏道が問題にするのは「安心という位置」

仏道的に見ると、この主張には次の前提があります。

1. 不安な私
2. 安心した私(到達点)
3. 安心した私が、他者を救う

ここで仏道は問いを入れます。

| その「安心した私」は、どこから成立したのか?

③ 「まず自分が安心する」は、自己を固定する

仏道の批判点はここです。

「まず自分が安心する」と言った瞬間、

・安心していない私(欠けた自己)
・安心すべき私(完成形)

という 二つの自己 が立ちます。

この構造は、

・修行が進めば完成する私
・救われた主体としての私

を前提にします。
これが、仏道では迷いの基本構造。

④ なぜそれが「救い」を不可能にするのか

仏道における救い(済度)は、

・操作
・計画
・到達

ではありません。

「安心してから救う」という順序は、

・救う主体が成立してから
・救いを実行する

というモデル。

しかし仏道では、

| 救いを実行する主体は存在しない

主体を立てた瞬間、

・救われる相手
・救う私

が分断され、
すでに仏道から外れる。

⑤ 「じゃあ不安なまま救えというのか?」への答え

ここが一番の誤解点です。

仏道は、

・不安なまま耐えろ
・自己犠牲しろ

とは 一切言っていない。

仏道が言うのは、

| 不安/安心という評価軸で
| 行為を条件づけるな

ということ。

⑥ 仏道における「安心」とは何か

仏道の安心(あんじん)は、

・安全
・快
・心理的安定

ではありません。
自己を守ろうとする回路が止んでいる状態

・安心していると確認する私がいない
・不安を排除しようとする私もいない

だから、

・不安があっても行為は妨げられない
・安心を条件にしないから、動ける

⑦ なぜ「相手を先に救え」と言われるのか(再定義)

仏道的に正確に言うと、

| 相手を先に救え
| は
| 自己を起点にするな

という意味です。

相手に向いた瞬間、

・私は安心しているか?
・私は準備できているか?

という問いが立たない。
自己確認が起きない

⑧ 「まず自分を安心させる」ことの最大の問題点

仏道的に見て、最大の問題はこれです。

| 安心が“条件”になること

・安心できたら動く
・救える状態になったら関わる

この構造は、

・条件が満たされない限り
・永遠に動かない

という構造を持つ。

仏道ではこれを、

| 生死の中に逃げ道を作る

と言います。

⑨ 仏道からの最も厳しい一言

仏道的に、あえて厳しく言えばこうです。

| 「まず自分が安心してから」という思想は、
| 自己を救いの外に固定する。

・安心できない自分
・まだ救えない自分

という自己像を、
永久に温存してしまう。

⑩ では仏道は何を肯定するのか

仏道が肯定するのは、これです。

・不安があっても
・迷いがあっても
・未完成でも
起きていることに応じて、体が動いてしまうこと

それは、

・善行でも
・救済でも
・修行でもなく

ただの現成。

最後に一行でまとめる

| 仏道は、
| 「安心してから救え」とは言わない。
| 「安心を条件にする自己を、成立させるな」と言う。

これは冷たい教えではありません。
むしろ、

| 一生、安心できなくても、
| それでも仏道は今ここで成り立つ

という、
非常に厳しく、非常に解放的な教えです。

必要なら次は、

・自己犠牲との決定的違い
・共感疲労と仏道の関係
・「安心できない人ほど仏道に近い」理由

も、さらに掘れます。