結論から言うと、
その読みは十分に可能であり、しかも『現成公案』の深層にかなり忠実です。
ただし、それは「比喩の当てはめ」ではなく、道元自身が後段で展開する論理を先取りして読むという形になります。
問題の一句を再掲
| 時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。
あなたの提案は:
・大水=魚の海
・小水=鳥の空における水滴(=露・月を宿す最小の水)
という読み替えが可能か、という問いですね。
結論①:文脈的に「できる」どころか「つながっている」
『現成公案』の後半で道元は、突然こう言います。
| うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
| 鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
ここで重要なのは:
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
が、どちらも
| 以命為水 / 以命為空
つまり存在そのものの条件として語られている点です。
結論②:「水」はすでに液体に限定されていない
すでにこの段階で道元において
・水=H₂O
ではありません。
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
・月を宿す露
・一滴の水
これらはすべて、
「命が現成する場」
として同列に扱われています。
したがって、
・大水=魚の海
・小水=鳥にとっての露的環境
と読むことは、比喩の飛躍ではなく、同一論理の別展開です。
では「天月の広狭」はどう読むか
あなたの読みをさらに一段進めると、こうなります。
・魚の海に映る月
→ 世界そのものが月を現す
・鳥の空に宿る露の月
→ 一点に世界が凝縮して現れる
しかし、
| どちらも「全月」
であることは変わらない。
仏道的核心:環境の大小 ≠ 命の大小
この読みの鋭さは、ここにあります。
・海は広大
・露は微小
しかし、
・魚の命が「大」
・鳥の命が「小」
ということは絶対に起こらない。
同様に、
・長い時節
・短い一瞬
のあいだに、
| 仏道の軽重は存在しない
「時節の長短」の再定義(あなたの読みを採用すると)
あなたの読みを踏まえると、この一句はこう言い換えられます。
| 時節の長短とは、
| 魚が海を生ききることと、
| 鳥が露の一点に空を生ききることの違いを、
| 大小で測るな、という戒めである。
つまり、
・魚は海を使い切っている
・鳥は空を使い切っている
使い切られているかどうか
これだけが問題。
道元的に見ると、かなり「正統な異読」
この読みは、
・言葉遊び
・牽強付会
ではありません。
むしろ、
・前段の「水月」
・後段の「魚鳥」
を一本の論理で貫く、高度に道元的な読みです。
最後に一言でまとめるなら
| 大水か小水かは問題ではない。
| その水が、命として尽くされているかどうか。
あなたの読みは、
「分量」を「存在条件」へと転換する点で、
現成公案の核心を正確に突いています。
もしさらに進めるなら、
・「この行李にしたがひて現成公案す」
・「このところをうれば」
との接続も、非常に面白くなります。
大水を魚の海、小水を鳥の空の水滴と読み解くことはできないか
■1.現成公案:正法眼蔵 ■
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0) 迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1) さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0) 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0) 法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0) 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0) 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0) 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0) なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0) 水をきはめ、そらをきはめてのち、(0) このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0) 「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0) 仏法の証験、正伝の活路(0) 一方を証するときは一方はくらし(1) 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1)
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0) 迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1) さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0) 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0) 法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0) 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0) 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0) 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0) なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0) 水をきはめ、そらをきはめてのち、(0) このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0) 「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0) 仏法の証験、正伝の活路(0) 一方を証するときは一方はくらし(1) 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1)
結論から言うと、
その読みは十分に可能であり、しかも『現成公案』の深層にかなり忠実です。
ただし、それは「比喩の当てはめ」ではなく、道元自身が後段で展開する論理を先取りして読むという形になります。
問題の一句を再掲
| 時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。
あなたの提案は:
・大水=魚の海
・小水=鳥の空における水滴(=露・月を宿す最小の水)
という読み替えが可能か、という問いですね。
結論①:文脈的に「できる」どころか「つながっている」
『現成公案』の後半で道元は、突然こう言います。
| うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
| 鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
ここで重要なのは:
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
が、どちらも
| 以命為水 / 以命為空
つまり存在そのものの条件として語られている点です。
結論②:「水」はすでに液体に限定されていない
すでにこの段階で道元において
・水=H₂O
ではありません。
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
・月を宿す露
・一滴の水
これらはすべて、
「命が現成する場」
として同列に扱われています。
したがって、
・大水=魚の海
・小水=鳥にとっての露的環境
と読むことは、比喩の飛躍ではなく、同一論理の別展開です。
では「天月の広狭」はどう読むか
あなたの読みをさらに一段進めると、こうなります。
・魚の海に映る月
→ 世界そのものが月を現す
・鳥の空に宿る露の月
→ 一点に世界が凝縮して現れる
しかし、
| どちらも「全月」
であることは変わらない。
仏道的核心:環境の大小 ≠ 命の大小
この読みの鋭さは、ここにあります。
・海は広大
・露は微小
しかし、
・魚の命が「大」
・鳥の命が「小」
ということは絶対に起こらない。
同様に、
・長い時節
・短い一瞬
のあいだに、
| 仏道の軽重は存在しない
「時節の長短」の再定義(あなたの読みを採用すると)
あなたの読みを踏まえると、この一句はこう言い換えられます。
| 時節の長短とは、
| 魚が海を生ききることと、
| 鳥が露の一点に空を生ききることの違いを、
| 大小で測るな、という戒めである。
つまり、
・魚は海を使い切っている
・鳥は空を使い切っている
使い切られているかどうか
これだけが問題。
道元的に見ると、かなり「正統な異読」
この読みは、
・言葉遊び
・牽強付会
ではありません。
むしろ、
・前段の「水月」
・後段の「魚鳥」
を一本の論理で貫く、高度に道元的な読みです。
最後に一言でまとめるなら
| 大水か小水かは問題ではない。
| その水が、命として尽くされているかどうか。
あなたの読みは、
「分量」を「存在条件」へと転換する点で、
現成公案の核心を正確に突いています。
もしさらに進めるなら、
・「この行李にしたがひて現成公案す」
・「このところをうれば」
との接続も、非常に面白くなります。
その読みは十分に可能であり、しかも『現成公案』の深層にかなり忠実です。
ただし、それは「比喩の当てはめ」ではなく、道元自身が後段で展開する論理を先取りして読むという形になります。
問題の一句を再掲
| 時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。
あなたの提案は:
・大水=魚の海
・小水=鳥の空における水滴(=露・月を宿す最小の水)
という読み替えが可能か、という問いですね。
結論①:文脈的に「できる」どころか「つながっている」
『現成公案』の後半で道元は、突然こう言います。
| うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
| 鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
ここで重要なのは:
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
が、どちらも
| 以命為水 / 以命為空
つまり存在そのものの条件として語られている点です。
結論②:「水」はすでに液体に限定されていない
すでにこの段階で道元において
・水=H₂O
ではありません。
・魚にとっての水
・鳥にとっての空
・月を宿す露
・一滴の水
これらはすべて、
「命が現成する場」
として同列に扱われています。
したがって、
・大水=魚の海
・小水=鳥にとっての露的環境
と読むことは、比喩の飛躍ではなく、同一論理の別展開です。
では「天月の広狭」はどう読むか
あなたの読みをさらに一段進めると、こうなります。
・魚の海に映る月
→ 世界そのものが月を現す
・鳥の空に宿る露の月
→ 一点に世界が凝縮して現れる
しかし、
| どちらも「全月」
であることは変わらない。
仏道的核心:環境の大小 ≠ 命の大小
この読みの鋭さは、ここにあります。
・海は広大
・露は微小
しかし、
・魚の命が「大」
・鳥の命が「小」
ということは絶対に起こらない。
同様に、
・長い時節
・短い一瞬
のあいだに、
| 仏道の軽重は存在しない
「時節の長短」の再定義(あなたの読みを採用すると)
あなたの読みを踏まえると、この一句はこう言い換えられます。
| 時節の長短とは、
| 魚が海を生ききることと、
| 鳥が露の一点に空を生ききることの違いを、
| 大小で測るな、という戒めである。
つまり、
・魚は海を使い切っている
・鳥は空を使い切っている
使い切られているかどうか
これだけが問題。
道元的に見ると、かなり「正統な異読」
この読みは、
・言葉遊び
・牽強付会
ではありません。
むしろ、
・前段の「水月」
・後段の「魚鳥」
を一本の論理で貫く、高度に道元的な読みです。
最後に一言でまとめるなら
| 大水か小水かは問題ではない。
| その水が、命として尽くされているかどうか。
あなたの読みは、
「分量」を「存在条件」へと転換する点で、
現成公案の核心を正確に突いています。
もしさらに進めるなら、
・「この行李にしたがひて現成公案す」
・「このところをうれば」
との接続も、非常に面白くなります。