時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。

この一句は、直前の
「ふかきことはたかき分量なるべし」
を、時間(時節)と空間(分量)の両面から言い切る、きわめて要の一句です。


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原文

| 時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。

逐語的にほどく(ただし意味は転倒している)

・時節の長短
 → 時間の長い・短い、修行歴の長短、体験の一瞬/長期

・大水小水を撿点し
 → 水の大小(大海・一滴)をよく点検せよ

・天月の広狭を弁取すべし
 → 天にある月の広い・狭い(=満月・三日月)を見極めよ

しかし、これは*「比較せよ」*
という意味ではありません。

核心:時間も悟りも「量」で測るな

道元が言っているのは、次の一点です。

| 時節(時間)を、外からの長短で測るな

なぜなら、

・大水に映る月も
・一滴に映る月も

どちらも「全月」だからです。

仏道的逆転①

「長い修行 = 深い悟り」ではない

・十年坐っても、一瞬坐っても
・一生修行しても、一念が尽くされても
その一時が現成していれば、それがそのまま全体

だから、

・長い時節が偉い
・短い体験は浅い

という発想そのものが、
すでに「分量にとらわれた迷い」になる。

仏道的逆転②

大水・小水は「器の違い」であって、月の違いではない

・大水 → 大きな状況・壮大な修行・深遠な体験
・小水 → 日常・一瞬・些細な行為

だが、

| 月は常に全月

つまり、

・坐禅堂の静寂
・台所で茶碗を洗う一動作
・苦悩の一瞬

そのどれにおいても、
仏法は欠けも増えもせず、完全に現れる。

「時節」とはクロック時間ではない

ここでの 時節 は、

・何分
・何年
・どれくらい続いたか

ではありません。
その時が尽くされているかどうか

・尽くされていれば「長」
・尽くされていなければ「短」

という、量ではなく現成の問題です。

現成公案的に言い換えると

・一滴の水に宿る月は
 → *小さい悟り・ではない
・一瞬の行は
 → *未熟な修行・ではない

その場・その時が完全に現れていれば、
それがそのまま仏道の全体。

だからこそ、

| 時節の長短は、大水小水を撿点し、
| 天月の広狭を弁取すべし

とは、

| 時間や体験を「外形」で測るな
| 現れている仏法のはたらきそのものを見よ

という、修行者への厳しい視線なのです。

一言で言えば

・長いか短いか、ではない
・大きいか小さいか、でもない

その一時が、全体として現成しているか。

それだけが、
仏道における「時節」の基準です。


必要であれば、この一句を

・「有時」巻
・「一時具足」
・日常実践(坐禅・作務)

と接続して、さらに深めることもできます。
1.現成公案正法眼蔵 ■ 
★注目スレッド: 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(0)  迷を大悟するは諸仏なり、 悟に大迷なるは衆生なり。(1)  さらに悟上に得悟する漢あり、 迷中又迷の漢あり。(0)  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。(0)  法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(0)  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(0)  仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(0)  仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(0)  なぜ“忘れる”が学びの頂点なのか(0)  水をきはめ、そらをきはめてのち、(0)  このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(0)  「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」(0)  仏法の証験、正伝の活路(0)  一方を証するときは一方はくらし(1)  自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(1) 
この一句は、直前の
「ふかきことはたかき分量なるべし」
を、時間(時節)と空間(分量)の両面から言い切る、きわめて要の一句です。


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原文

| 時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。

逐語的にほどく(ただし意味は転倒している)

・時節の長短
 → 時間の長い・短い、修行歴の長短、体験の一瞬/長期

・大水小水を撿点し
 → 水の大小(大海・一滴)をよく点検せよ

・天月の広狭を弁取すべし
 → 天にある月の広い・狭い(=満月・三日月)を見極めよ

しかし、これは*「比較せよ」*
という意味ではありません。

核心:時間も悟りも「量」で測るな

道元が言っているのは、次の一点です。

| 時節(時間)を、外からの長短で測るな

なぜなら、

・大水に映る月も
・一滴に映る月も

どちらも「全月」だからです。

仏道的逆転①

「長い修行 = 深い悟り」ではない

・十年坐っても、一瞬坐っても
・一生修行しても、一念が尽くされても
その一時が現成していれば、それがそのまま全体

だから、

・長い時節が偉い
・短い体験は浅い

という発想そのものが、
すでに「分量にとらわれた迷い」になる。

仏道的逆転②

大水・小水は「器の違い」であって、月の違いではない

・大水 → 大きな状況・壮大な修行・深遠な体験
・小水 → 日常・一瞬・些細な行為

だが、

| 月は常に全月

つまり、

・坐禅堂の静寂
・台所で茶碗を洗う一動作
・苦悩の一瞬

そのどれにおいても、
仏法は欠けも増えもせず、完全に現れる。

「時節」とはクロック時間ではない

ここでの 時節 は、

・何分
・何年
・どれくらい続いたか

ではありません。
その時が尽くされているかどうか

・尽くされていれば「長」
・尽くされていなければ「短」

という、量ではなく現成の問題です。

現成公案的に言い換えると

・一滴の水に宿る月は
 → *小さい悟り・ではない
・一瞬の行は
 → *未熟な修行・ではない

その場・その時が完全に現れていれば、
それがそのまま仏道の全体。

だからこそ、

| 時節の長短は、大水小水を撿点し、
| 天月の広狭を弁取すべし

とは、

| 時間や体験を「外形」で測るな
| 現れている仏法のはたらきそのものを見よ

という、修行者への厳しい視線なのです。

一言で言えば

・長いか短いか、ではない
・大きいか小さいか、でもない

その一時が、全体として現成しているか。

それだけが、
仏道における「時節」の基準です。


必要であれば、この一句を

・「有時」巻
・「一時具足」
・日常実践(坐禅・作務)

と接続して、さらに深めることもできます。